江戸時代後期の禅僧・詩人、曹洞宗の僧侶である
「良寛(りょうかん)」の解説をします!
プロフィール
- 生没 1758〜1831年
- 宗旨 曹洞宗
- 別名 大愚(たいぐ)・栄蔵(えいぞう)
良寛の生涯
名もなく貧しく美しくを体現した禅僧
江戸時代後期の宝暦8年(1758年)、越後(現在の新潟県)に生まれました。18歳で出家、22歳のときには備中国(現在の岡山県)の円通寺で修行。33歳のとき、師の大忍国他から禅僧として認められました。その後、各地へ行脚の旅に出ますが、寛政7年(1795年)、名主であった父の自殺を聞いて越後へ戻ります。以降、その生涯のほとんどを越後の農村で過ごしています。
越後は、かつて「親鸞」が配流され、宗教的には浄土真宗が広く浸透していました。良寛は曹洞宗の禅僧ですが、宗教上の対立で悩んだという記録はないです。逆に良寛は村人の求めに応じて「南無阿弥陀仏」を揮毫するなど、宗派にこだわらない、懐の深さを示しています。その理由は、良寛にとっての仏教とは、自身がさとりに至る道であり、庶民をその道に案内する手助けをすることが自分の役割だと考えていたからです。
越後では国上山中腹の五合庵のちには麓の乙子神社の草庵に居を構えました。とはいっても、小さく貧しい庵でした。托鉢によって日々の食を得、坐禅をし、詩や和歌を詠み、子供たちと遊ぶ毎日を過ごします。
やがて、病に伏しがちになると、島崎村の木村家の庵に移ります。 親交のあった貞心尼にみとられ、74歳の生涯を閉じました。
良寛のエピソード
俗世を離れ、無心に子供と遊ぶ姿こそが良寛を語る
数々の逸話をもちますが、そのなかに、子供たちとかくれんぼをして遊んでいたとき、良寛は、子供たちが日が暮れて帰ってしまったのも知らず、ずっと翌朝まで隠れつづけていたという有名な話があります。 また、泥棒が取りやすいように、 わざと体をずらして蒲団を盗ませてやったというエピソードもあります。
出世や権力に対する欲をもたず、 清貧を通した 「人間良寛」の真骨頂を伝えるものですね。
貞心尼に寄せた辞世の歌
「裏を見せ、表を見せて散るもみじ」 晩年、良寛のもとに通い、その最期をみとった若い尼僧貞心尼へ送った辞世の和歌。 自らの作ではないですが 「私はおまえにだけは、裏も表もすべて見せた。そうして安心して散ってゆく」と詠んでいる。
いかがだったでしょうか
今回はここまでです!
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