【 木食 】名僧解説シリーズ

坊主

政治僧として活躍した「木食(もくじき)」を解説します!

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プロフィール

  • 生没 1536〜1608年
  • 宗旨 真言宗
  • 法名 応其(おうご)
  • 尊称 興山上人(こうざんしょうにん)

木食の生涯

政治僧として活躍した真言宗の怪僧

もとは武士出身で37歳で出家しました。その名も高野山に入って、〝穀断ち・木食”という苦行をしたところからついたといわれています。や

がて、仁和寺に入り、阿闍梨となりますが、高野山では単なる客僧の身分でしかなかったといいます。その彼を重用し、ことあるごとに頼りにしたのが「豊臣秀吉」であった。秀吉は寺院対策が必要になると、必ず木食を引っ張りだし、交渉・仲介の役に当たらせました。

木食をとことん見込んだ秀吉が「高野の木食」ではなく「木食の高野」とまでいったことは有名です。このようにすぐれた政治手腕も有していたため、秀吉の庇護のもと、高野山をはじめ、各地に寺社を建立・開創。

しかし、秀吉の死後は、徳川家康ににらまれる存在となり、すべての地位を退いて、故郷の近江に隠遁。73歳で没しました。

豊臣秀吉

木食の行跡

高野山中興の功労者として名を残す

多くの寺社を建立・開創しているが、なかでも、高野山については、それが顕著に見られています。 金堂を修復し、大塔を再築するなど合計25か所にも及んでいます。 また、天正13年、秀吉が高野山攻めを決意し、大軍を動かしたときも、木食は高野山からの使者として秀吉の陣営まで行き、帰順の意を表明します。これによって、秀吉は決行を取りやめました

秀吉の相談役として敏腕をふるう

秀吉とは実に深い関係でした。 例えば、かねてより敵対していた根乗寺(紀伊)に木食を使者として遣わしたとき、説得に失敗して殺されかかったと知ると、 秀吉はまるで仇を討つように、 根来寺を徹底的に焼き討ちしています。 また、秀吉は、 木食に京都方広寺の大仏造営の幹事役を与えたり、木食が高野山に興山寺を開くと、 時の後陽成天皇より勅額を賜ってもいる。 一方、木食も、高野山金剛峯寺との間を斡旋するなど、秀吉のために奔走しています。

坊主

いかがだったでしょうか
今回はここまでです!

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