お釈迦さまを慕いつづけた「明恵(みょうえ)」の解説をします!
プロフィール
- 生没 1173〜1232年
- 宗旨 華厳宗
- 別名 明慧(みょうえ)
- 諱 成弁(じょうべん)・高弁(こうべん)
明恵の生涯
釈迦を追慕しつづけた高潔の僧
紀伊国(現在の和歌山県)に生まれました。8歳のときに母を、次いで戦争で父を失ったため、母方の叔父である神護寺の上覚に師事し、16歳のときに出家、受戒しました。
その後、尊勝院の弁暁・聖詮について華厳・倶舎を、興然・尊実に密教を、栄西には禅を学びます。21歳のとき神護寺の別院栂尾山に住み、尊勝院にも赴いたが、寺僧間の争いに嫌気がさし、23歳で去ります。そのあとは故郷と神護寺を往き来して、華厳宗関係の仏典を研究しました。
「明恵」は常々、釈迦が生まれ、生きたインドを訪れることを願っていました。夢はインド仏跡参拝であり、その準備をしていたが、最初の計画は春日明神の神託により断念。 2度目は、計画を実行に移そうと『天竺里程書(印度行程記)』まで作成したが、急病のため念願を果たせませんでした。
そこで、後鳥羽院から尾の地を賜ると弟子をともなって移り、ここ高山寺と称しました。果たせなかったインド参拝をこの地でかなえようと、釈迦の遺跡になぞらえた諸堂や仏像を、次々と整備していったのです。この旧跡は山中に、現在も残っています。
明恵は、承久の乱の際、公卿の妻をかくまったことから、北条泰時の帰依を受けるようになりました。このとき明恵は一度捕えられたが、その人間性と学識の豊かさが買われ、かえって親交をもつきっかけとなったのです。また、「法然」の『撰択本願念仏集』を厳しく批判する『摧邪輪』を著し、戒律を重んじて南都仏教の復興を図りました。
釈迦を追慕し、名利を厭った高潔な行いが、多くの人から尊崇されました。親交をもった人々のなかには、北条泰時のほか、九条兼実・道家、西園寺公経、藤原定家、安達景盛といった朝廷や貴族のほか、笠置寺の貞慶、松尾寺の慶政などの名僧・高僧もいます。
明恵の隠れた業績に茶の栽培があります。禅宗の師である栄西より茶の実を得て、栂尾に植えて、いわゆる相尾茶を栽培、広めてもいます。
明恵のエピソード
耳を切るほど自分に厳しい。釈迦の遺跡をまねて高山寺を建てる
明恵の求道心は異様なほど激しかったといわれています。
20歳の頃、自らの修行をより厳しくするために、耳を切ったほどです。また、一方では釈迦を慕い、ひとたび話が釈迦のことに及ぶと、感激のあまり涙を流したといいます。
明恵は、高山寺を建立した栂尾を夢の国・インドにある釈迦の遺跡をまねて、 整備しています。 まず、 金堂をつくり、 運慶・湛慶がつくった釈迦や四天王像を置き、 そのあとで、諸堂を配置しました。 さらに金堂の裏山を楞伽山と名づけ、山中に花宮殿・羅婆坊と称する草庵を設けます。 また、 巨石を定心石と名づけて、ときにはここで経疏を読んだり、 坐禅入観の場にしたといいます。
いかがだったでしょうか
今回はここまでです!
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