【 白隠 】名僧解説シリーズ

坊主

臨済宗、中興の祖と称される「白隠(はくいん)」の解説をしていきます!

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プロフィール

  • 生没 1685〜1768年
  • 宗旨 臨済宗
  • 別名 慧鶴(えかく)・正宗国師(しょうしゅうこくし)

白隠の生涯

生涯さとりを求めつづけた熱血僧

江戸中期の貞享2年(1685年)、現在の静岡県沼津市で生まれました。15歳のとき郷里の松蔭寺で出家します。修行と学問に励むが、ふとしたことから仏教(禅)に失望、詩文に明け暮れるようになる。

しかし、翌年、大垣の瑞雲寺の馬翁和尚(ばおう)のもとで、たまたま目にした『禅関策進(ぜんかくさくしん)という本の「引錘自刺(いんすいじし)」の章を見て啓発され、再び仏道に戻る決意をしました。「引錘自刺」とは、中国僧の慈明が睡魔と闘うために、錐で太ももを刺しつづけて修行したというエピソードです。

さとりに達したのは、信州飯山の道鏡慧端(正受老人)のもとで修行したあとです。さらに、白隠は正受老人からさとり後、つまり〝後”の修行の大切さを教えられます。これは、以降の白隠にとって、生涯、さとりを求めるという思想・行動の根本原理となりました。「生涯に大悟一八度、小悟数を知らず」といったのは、有名な話です。

さらに、悟後の修行を肝に銘じて精進を続け、31歳のときには、美濃で「内観の法」の修行に没頭します。その後は、故郷の松蔭寺で後進を指導、また一般庶民に対してもやさしい仮名法語や軽妙な歌をもって教化して、多くの人々から慕われました。

白隠は自らに対しても、また門弟たちに対しても、悟後の修行を厳しく指導しています。その修行の方法として「公案」を重視、独自の公案体系を確立。一方で、黄檗宗の念仏禅を鋭く批判しました。

やがて、妙心寺第一座を与えられ、「白隠」と名乗ります。晩年は故郷の田舎の住職として終えました。83年の生涯でした。

現在の臨済宗の法系は、彼の弟子たちが主流です。このことから白隠は、臨済宗「中興の祖」と呼ばれています。

白隠のエピソード

師・正受老人との丁々発止で大悟、小悟を繰り返す

白隠が最初にさとりに達したと思ったのは、坐禅中に鐘の音を聞いたときです。しかし、その未熟さを指摘したのが、師の正受老人です。

正受老人を訪ねた際、 まず、 白隠は自分の見解を紙に書いて渡しました。 しかし、「知識ではなく、 体得したものを出せ」といわれ、これを一見もせずに握り潰されてしまいます。 白隠もやり返し激しく議論したが、しだいに自身の未熟さに気づきます。

そしてある日、托鉢中、老婆に竹ボウキで打たれてさとりを開くと、ようやく正受老人にも認められました。その後も、正受老人と問答、議論を繰り返し、何度も大悟、小悟に至ったといわれています。

自らの体験をもとに健康法としての坐禅を説く

白隠は1度、心身を病んでしまったことがあります。このときの症状は胸が苦しくなり、頭に血がのぼり、脚は冷たくなり、耳がガンガンして幻覚も起こります。

心はおどおどして常に休まらず、目にはいつも涙がたまり、わきの下には冷や汗が流れるというもの。

今でいえば、自律神経失調症のような病気で、白隠はこれを治すべく、白幽仙人のもとへ赴いた。 白幽はこれを「坐禅のやりすぎ」と診断。 秘薬として腹式呼吸と「内観の法」という一種の精神療法を教えました。 白隠はこの治療法を「夜船閑話(やせんかんわ)」に記し、同じ病気で悩む人々に、“正しい坐禅” の方法を説きました。

坊主

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今回はここまでです!

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