室町時代の日本の仏教僧で、日蓮宗の中心的な人物であった
「日親(にっしん)」の解説をします!
プロフィール
- 生没 1407〜1488年
- 宗旨 日蓮宗
- 別名 久遠成院(くおんじょういん)・鍋冠上人(なべかむりしょうにん)
日親の生涯
投獄、弾圧に屈せず日蓮宗を伝道
応永14年(1407年)、上総国(現在の千葉県)に生まれました。幼時に地元の豪族・埴谷氏の養子となり、縁あって中山法華経寺の日英が営んでいた妙宣寺に入ります。そして、師・日英から「行動性」を、宗祖・日蓮に直結する法脈からは、その教えの「正統性」をあますところなく修得しました。日親の「行動の上に仏を求める」という宗教理念は、このとき学び取ったのです。
しかし、間もなく日英を亡くし、中山法華経寺貫首の日暹・日薩(にっさつ)に師事しました。
やがて、27歳のとき「九州の導師」として肥前国小城郡(現在の佐賀県小城町)の光勝寺へ赴き、九州における中山法華経寺の教団統率にあたることになりました。ところが、日親の不受不施と厳しい折伏の姿勢は本山と相容れず、破門されてしまいます。
そこで上洛し、『折伏正義抄』を著して伝道の決意を語ると、次いで『立正治国論』を著して将軍・足利義教に直訴。しかし、その内容、持論の激しさを危険視した幕府に、投獄されてしまう。日親はここで、言語に絶する過酷な刑を受けましたが、『法華経』の信仰を曲げることはなかった。
翌年、恩赦によって出獄。京都を本拠地に全国各地に伝道活動を展開したが、その主張が他宗を激しく攻撃するものであったため、至るところで迫害を受けた。さらに、その主張があまりに激しすぎたため、寛正3年(1462年)に再び幕府に捕えられてしまう。こうした日親の行動は宗祖日蓮のそれと酷似しています。
翌年自由になったが、その後は本法寺を中心に教団体制の確立に尽力しました。 そして、応仁の乱後は、京都で町の人々の救済に専念します。
その後は、日有に対する批判書『埴谷抄』、日蓮からの正統性を主張する『伝燈抄』などを著し、教団の秩序の確立を図ったが、長享2年(1488年)、82歳の生涯を閉じました。
日親の伝説
「なべかむり日親」の異名をとった忍耐の人
将軍に直訴して投獄された際、牢の中で、日親はさまざまな拷問を受けました。そのひとつが「鍋かむり」である。 真っ赤に焼いた鍋を頭にかぶせられながらも、なお題目を唱えつづけたという。日親を語るときには忘れられないエピソードです。
このほかにも、火責め、水責めなどの拷問にも屈することがなかったといいます。ところが、実際はこのような刑罰は行われなかったともいわれてます。幕府の弾圧にも屈せず『法華経』の信仰を主張した受難の体験を伝説化したもので、江戸時代に集成された話だといいます。
いかがだったでしょうか
今回はここまでです!
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