【 天海 】名僧解説シリーズ

坊主

徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した
「天海(てんかい)」を解説します!

目次

プロフィール

  • 生没 1536〜1643年
  • 宗旨 天台宗
  • 別名 智楽院・慈眼大師(じげんだいし)

天海の生涯

ライバル崇伝とともに徳川家に仕えた

徳川家康」の側近には、互いを強くライバル視する2人の僧がいました。そのうちのひとりが「天海」です。家康を日光東照宮に「権現」として祀った僧で、もうひとりの「崇伝」にくらべれば、クリーンな印象があります。

徳川家康

天海の生年・出自については、諸説があります。11歳のときに会津で出家し、比叡山に入り台密を修めて、園城寺、興福寺、足利学校などでも修学しています。

その後、「武田信玄」の招きで甲斐に赴き、次いで武州川越・喜多院、下野国(現在の栃木県) 宗光寺の住職を歴任するなど、着々と経歴を積み重ねていきました。

武田信玄

慶長14年(1609年)に、家康によって権僧正に任ぜられたときは、すでに70歳を越えていました。しかし、壮年期のような若々しさを保ちつづけ、以来、仏教の論議や祈禱をもって重用されるようになりました。

実際に、家康が病に倒れたときに、天海の祈禱によって治ったという話が伝わっています。

こうして、家康の厚い信任を得て川越喜多院を与えられました。その後も天海のパワーは衰えることなく、関東天台宗の興隆と発展を目指して精力的な活動を展開し、そのとき発せられたのが『関東天台宗法度』。これは、関東に比叡山延暦寺の、さらに上をいく特権を認める本寺を定めるという法律です。その全権が喜多院、すなわち天海に与えられたのです。

全権を委ねられた天海は、関東天台宗ではおそれるものは何もないです。着々と宗勢を拡大し、その地位を揺るぎないものにしていきました。そして、家康が没したときは、その祀り方で、ライバル・崇伝の「明神」 案を退け、自分の「権現」案で〝東照大権現・家康〟を実現しました。

また、秀忠の代の寛永元年には、悲願の”関東天台宗”の本山をようやく上野に建立することを実現。 比叡山に対応すべく、これを「東叡山寛永寺円頓院(とうえいざんかんえいじえんどんいん)」と名づけて、自ら開山におさまりました。

没したのは108歳という、当時では異例の長生き。しかし、114歳、130余歳という説もある。

天海のエピソード

ライバルの崇伝と張り合いながら、その名を残す

沢庵が紫衣事件で罪に問われたとき、 崇伝はこれを糾弾しましたが、天海は家康への”とりなし役”としての力を発揮。遠島になるところを、羽州への流罪で止めさせています。家康が没したとき、 神号として天海は「権現」(神仏習合) を、 崇伝は 「明神」(唯一神道)を主張。このとき2人は最も激しく対立したが、 天海はあくまで「家康の遺言」と主張し、一歩も譲らなかった。 結局、「権現」として日光東照宮に祀りました。このとき天海は81歳です。意気さかんな天海の執念に、47歳の崇伝もあきれはてたといいます。

坊主

いかがだったでしょうか
今回はここまでです!

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次