書画・詩文に通じ、墨跡を残している「沢庵(たくあん)」の解説をします!
プロフィール
- 生没 1573〜1645年
- 宗旨 臨済宗
- 別名 宗彭(しょうほう)・普光国師(ふこうこくし)
沢庵の生涯
権力に屈せず清貧、孤高に生きた禅僧
「沢庵和尚」といえば『宮本武蔵』に登場した僧侶、沢庵漬けの考案者として、有名だが、れっきとした臨済宗の高僧です。
但馬国(現在の兵庫県)に武士の子として生まれ、10歳で地元の寺に入り『浄土三部経』などを修学するが、禅に興味を抱き、14歳で転宗した。 禅僧として、さとりを開いたのは32歳のときです。 その際に「沢庵」という号を授けられた。
以降、順調に出世の階段を上り、34歳で大徳寺第一座に転じ、37歳で大徳寺153世住持となりました。つまり、最高位の紫衣(しえ)を着けることが許されたのです。
数年後に岸和田・日光教寺、極楽寺へと移りましたが、寛永時代に入ってひとつの事件が起こります。これが「紫衣事件」である。以前、幕府が定めた『元和元年大徳寺妙心寺法度』を当の大徳寺・妙心寺が守っていないということで、両寺での僧の出世が禁じられてしまった。
しかし、沢庵はこの禁止令を無視。正隠という僧を出世させて、幕府を激怒させてしまいます。 大徳寺内部でも幕府に楯つく行為と足ぶみする者もいましたが、沢庵は強行派を率いてさらに幕府に反発して抗弁書を突きつけました。これがますます幕府を怒らせ、沢庵は羽州上山に配流されてしまう。このとき幕府側で糸を操っていたのが、怪僧、金地院崇伝(こんちいんすうでん)であった。
しかし、沢庵は配流された羽州上山で領主・土岐山城守に手厚く迎えられ、城外に庵を建ててもらうなど、平穏な日々を過ごしました。 沢庵は、参禅した彼に「剣禅一如」の思想を授けています。
配流が解かれたのは3年後。沢庵は羽州上山をあとにすると、2年近くを神田・広徳寺で過ごし、大徳寺に帰ります。そして、二条城で徳川家光に拝謁すると、家光はその人徳の深さを知り、沢庵に帰依します。寛永15年には品川東海寺の創建を要請して、親交は沢庵の晩年まで続きました。晩年は、後水尾上皇の厚い支援も受けました。
幸福で平穏に過ごし、73歳でその生涯を閉じました。 辞世の偈はたった一文字 「夢」であったという。
沢庵のエピソード
柳生但馬守と素手で対決して、みごと負かす
あるとき、沢庵は大胆にも、柳生家(やぎゅう)の門前で「将軍指南役だといっているが、まだまだ未熟者だ」 と放言。 宗矩(むねのり)はそれを聞いて、沢庵に試合を申し込んだのです。
このとき、 木剣を構える宗矩に対して、沢庵は素手で、しかも坐ったまま。 ところが打ち込もうにも一分の隙もなく、さすがの宗矩も負けを認めたといいます。
以降、宗矩は沢庵のもとで参禅修行を続け、ついに奥義に達すると、沢庵は「不動智神妙録」を与えました。 この書には剣の心にたとえて、禅の心の大切さが説かれています。
いかがだったでしょうか
今回はここまでです!
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