日本の臨済宗に影響を与え、発展の基礎をつくった「祖元(そげん)」の解説をしていきます!
プロフィール
- 生没 1226〜1286年
- 宗旨 臨済宗
- 別名 無学(道号)・仏光禅師(ぶっこうぜんじ)。円満常照国師(えんまんじょうしょうこくじ)
祖元の生涯
宋から鎌倉へ渡来した臨済宗の僧
宋の明州慶元府(現在の浙江省)に生まれました。出家したのちは、径山(きんざん)に入り禅を学びます。名は無学ともいいます。さとりを得たのは36歳のときです。物初大観のもとで修行を続けていた2年目のある日、たまたま水を汲もうとして、轆轤(ろくろ)の動く様子を見たときです。以前の師である無準師範から与えられた公案の意味をさとったのです。
その後、方々の寺院から招きを受けて諸寺に住しました。温州(浙江省)の能仁寺にいたとき、モンゴル兵が侵入してきました。ほかの僧たちは皆、寺を捨て逃げ出していましたが、祖元のみはとどまりました。そして、彼は泰然として事にあたり、難を逃れたという逸話を残している。
運命の転機はその翌年に訪れました。四明の天童山に住したとき、法友であった古潤(こじゅん)が日本から戻った際に訪れ、執権・北条時頼(ほうじょうときむね)の立派な臨終の様子や、仏法が尊ばれているということを語りました。この話で無学は日本渡航の夢を抱くようになりました。同時に、北条時宗による僧の招請に、天童山の環溪惟一が推挙してくれたことも重なり、弘安2年(1279年) 来日しました。
3年後に、時宗が円覚寺を創建すると、開山に請じられ、以降、この地で時宗をはじめ鎌倉武士たちを積極的に教化。〝老婆禅(ろうばぜん)”といわれる懇切な教育によって、精神鍛練を指導しました。彼の門派は仏光派といわれ、高峰顕日(こうほうけんにち)、規庵祖円(きあんそえん)などのすぐれた禅僧たちが輩出されました。特に高峰会下から出た夢窓疎石は一大勢力を成し、五山禅林(ござんぜんりん)の主流を占めています。
滞在は数年の予定でしたが、宋の政情不安もあって、生涯を日本で終えました。弘安9年に没。
彼を厚く援助した時宗が34歳の若さで亡くなったその2年後、61歳でした。
没後、「仏光禅師」と諡号され、のちに光厳天皇から円満常照国師と追号されました。
祖元のエピソード
モンゴル兵に刀をつきつけられても動ぜず
兵ただひとり残って、堂内に端坐していると、踏み込んできたモンゴル兵が、刀を祖元の首に当て、まさに切りつけようとしました。しかし彼は少しも動ぜず、「世にあるものはすべて空しく、人も物も一切空である。 3尺の大刀が切るものは何なのか」と、すべての執着を断ち切った心境を語りさとすと、兵士たちも心を打たれて、非礼を詫び、退散したといいます。
いかだだったでしょか
今日はここまでです!
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