【 雪舟 】名僧解説シリーズ

雪舟
坊主

秋冬山水図などの水墨画で知られる室町時代の僧侶、
「雪舟(せっしゅう)」を解説するよ!

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プロフィール

  • 生没 1420〜1506年
  • 宗旨 臨済宗
  • 別名 等楊(とうよう)・楊知客(ようしか)

絵がさとりへの道を開いた天才画僧

応永27年(1420年) 備中国(現在の岡山県)の武士の家に生まれました。少年時代に近くの寺に小僧として入門したものの、絵を描くことが好きで、肝心の修行はそっちのけだったといいます。当時、文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道で、室町時代は禅僧が学問・文芸を担っていました。

小僧時代が終わると、京都の相国寺・春林周藤(しゅんりんしゅうとう)のもとで本格的に厳しい禅修行を10年以上積みながら、絵の研鑽も励んでいました。雪舟は相国寺で画家としても名高い禅僧、周文に出会い、画僧として開眼することになります。

しだいに、禅僧としてよりも画僧として名を知られるようになると、相国寺を離れて周防国(現在の山口県)へと向かいます。 “雲谷庵”(うんごくあん)を構えて、画禅一致の生活をはじめたのである。「雪舟」と名乗るようになったのは、この時期でした。

ところで、雪舟の描く山水画は、一見不自然さを感じさせる構図となっています。しかし、それは肉眼では見えない何かを心眼することによって見抜き、描いているからだといいます。彼は確かに画僧ですが、それ以前に、生涯を禅に捧げた禅僧です。山水画を描くことは、彼にとってさとりへの手段でした。代表作『四季山水図』に見られるように、四季の自然の変化に「釈迦」の世界を見ようとしました。その世界と同化し、一体となることによって禅の奥義に達し、さとりを開こうとしたのです。不自然な構図は、その表れでした。

念願の山水画の本場・明への渡航の機会を得たのは48歳のときです。日本を代表する画僧として華々しい活躍をされ、3年近くを過ごし、50歳で帰国しました。

その後、山口で6、7年を過ごし、大分に“天開図画楼〟というアトリエを開いて画業に専念します。10年後、66歳のとき、ライフワークともいえる『四季山水図』を完成させました。永正3年、83歳で没。 ※一説には87歳とも伝えられています。

雪舟の行跡

明で開花した才能

渡航後、 雪舟は、依頼されて明政府の建物である礼部院の壁にみごとな山水画を描いています。これは絶賛を博し、天童山景徳禅寺(中国五山の筆頭)から「禅班第一座(ぜんぱんだいいちざ)」 という高い称号を与えられました。相国寺を出た雪舟が庇護を受けたのが、当時、対明勘合貿易を主宰するほどの勢力をもった周防の大内氏です。常栄寺には、 彼が雪舟につくらせた庭が現存しています。 また、 雪舟が乗った遣明使船も大内氏ものであった。

坊主

いかだだったでしょうか
今回はここまでです!

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