名門武家を捨てて僧侶になった「西行(さいぎょう)」を解説します!
プロフィール
- 生没 1118〜1190年
- 宗旨 未所属
- 別名 円位(えんい)・大本坊(だいほんぼう)・西行法師
西行の生涯
名門武家を捨てて漂泊に生きた歌僧
平安末期の元永元年(1118年)、藤原秀郷を先祖にもつ名門武家、佐藤康清の子として生まれました。名は義清。長じては鳥羽院の北面の武士となりました。
しかし、23歳のときに突然出家します。理由は明らかではないが、『源平盛衰記』では、当時すでに妻子のあった彼が、身分の高い女性に失恋したためだとか、あるいは『西行物語』では、身近にいた者の突然の死を目の当たりにして、無常を感じたためだとも伝えられています。
出家後は、当然ながら家名も妻も子も、また武士としての出世も財産も、すべて打ち捨てて漂泊の旅に出ました。鞍馬・大原・嵯峨などをめぐり、山中に暮らして修行の身となりました。
26歳のときに京を離れ、伊勢、関東、東北、さらには中国、四国九州、北陸、信州、熊野など旅、また旅の連続でほぼ全国を行脚した。さらに仏道の修行のため、数多くの寺社を参詣してまわりました。熊野神社にはたびたび赴き、山岳修行を重ねています。
こうした漂泊の生活を支えていたのは、歌です。歌を詠むという行為は、漂泊の旅人の心を支えるだけではなく、彼にとってさとりに至る大きな手段でもありました。
事実、彼の思想の多くはその歌のなかに見ることができる。以降、「出家遁世」の歌僧として、俗界との交渉を一切断つ生活が続くことになる。『千載和歌集』『新古今和歌集』に多くの歌が入集され、『山家集』も知られている。
一寺にとどまったり、門弟を育てることなく、漂泊の歌僧のまま、河内国弘川寺で73歳の生涯を閉じました。
西行の行跡
2000 首あまりの歌を世に残した
西行の歌は、約1500首を収めた歌集 「山家集」のほか、小集を合わせて2000首あまりが伝えられています。その内容は、平易な言葉で淡々と歌うなかに、厳しい修行を経た自由な気ままな心境をうかがうことができます。 また、美よりも精神的な清らかさを詠んだものもみられます。
さらには、草庵の生活を背景とした清冽な枯淡の心境など、他の追随を許さない個性があります。 また、「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」といったような、 花や月、 旅を詠んだ歌が多いのも、旅浪詩人としての面目躍如といったところである。
宗派を超えて愛された西行。数々の伝説が物語を生んだ
「明恵上人伝記」では、明恵が西行を深く崇めていたという話が伝えられています。 「西行物語」では、頼朝にもらった銀の猫を門外に遊ぶ子供に与えた、院の女房や遊女と歌を詠みかわしたという話を見ることができます。そして室町時代に入ると、連歌師の理想像となり、謡曲では幽玄の極致を表す人として『雨月』『江口』『西行桜』『松山天狗』の主人公に、さらに、江戸時代には浮世絵の題材としても好まれて描かれています。宗派を超えて愛され、日本人の人生観や美意識を具現化した、その典型として伝説化されたのです。
いかだだったでしょうか
今回はここまでです!
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