政界で暗躍した「崇伝(すうでん)」を解説します!
プロフィール
- 生没 1569〜1633
- 宗旨 臨済宗
- 別名 以心(道号)・円照本光国師
政界で暗躍した黒衣の宰相
足利氏の家臣の家に生まれ、幼時に父と死別し、南禅寺に入りました。
のちに醍醐三宝院、相国寺に学び、建長寺などの住職を経て、南禅寺270世住持となる。金地院を居としたことから、「金地院崇伝」とも呼ばれています。
彼の最大の能力は、臨済宗の僧としてより、むしろ政治僧としての手腕でした。その才能に目をつけ、重用したのが徳川家康です。家康は彼を駿府に呼び、その腕前を試すかのようにまず外交書をつくらせます。
家康は、できあがった外交書によってその才能を確信しました。 さっそくキリスト教禁制の国書の草案づくり、さらには「伴天連追放令」を起草させた。これが、政治僧崇伝の初仕事でした。しかし、このあとこそが、崇伝の本領発揮。今でいう政治ブレーンとして、家康は彼の能力を次々と引きだしていきます。
家康に見込まれた二人の政治僧、崇伝と天海は、互いをライバルと認め、しのぎを削っていくことになります。しかも、崇伝は怪僧として暗躍した。崇伝はその才能を、内政面でも発揮させるようになった。当時は、キリスト教以外にも、巨大化した国内の仏教宗団という内敵も存在した。その内敵を抑えこむことが家康の望みで、崇伝はそのために寺院法度をはじめ、さまざまな法度を制定した。
こうして外交・内政両面にわたっ暗躍するようになり、やがて 「武家諸法度」「紫衣法度」「公家諸法度」「禁中並公家諸法度」など多岐にわたって権力をかざし、介入しました。大徳寺の〝衣事件〟では、沢庵らに厳科を主張して、思うがままに勢をふるった。そのため「黒衣の宰相」、または「大慾山気根院僣上悪国師」などと陰口をたたかれました。
家康の死後も秀忠につかえ、強大な権力を握ったまま、寛永10年、 65歳で没した。
崇伝のエピソード
大坂の陣の火種をつくった鐘銘事件
金地院崇伝という名前が一躍有名になったのは、家康が豊臣秀頼を攻めた大坂の陣のきっかけとなった件です。
これは、豊臣家が京都の方広寺の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」と彫ったことが問題になりました。 家康側は(正確には崇伝の悪知恵) 「家康の名前を引き裂いて、家康を呪うもの」と難癖をつけたのである。 このとき使者として豊臣家へのりこんだのが、崇伝とライバルであり同様に家康に重用されている「天海」でした。
いかだだったでしょうか
今回はここまでです!
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