【 親鸞 】名僧解説シリーズ

親鸞
坊主

浄土真宗の開祖である、「親鸞(しんらん)」の解説をしていきます!

目次

プロフィール

  • 生没 1173〜1262年
  • 宗旨 浄土真宗
  • 別名 綽空(しゃくくう)・善信(ぜんしん)・見真大師(けんしんだいし)

親鸞の生涯

流罪・妻帯・弾圧の波乱に満ちた一生

承安3年(1173年)、名門・日野一族の有範(ありのり)の子。9歳で出家し、比叡山で修行していました。しかし、29歳で比叡を下山。伝説によると、京都・六角堂にこもっているとき、聖徳太子が現れて夢告したとなっているが、「雑行を棄てて、本願に帰す」というのが、実際の理由でした。

そして、法然のもとに弟子入りすると、そこでたちまち才覚を現しました。当時、法然の念仏は上下貴賤を問わず広く受け入れられたが、これに対して旧仏教側の反発も高まりました。法然の弟子二人の女犯の噂が引き金となって、後鳥羽院は専修念仏禁止を申し渡します。そして、親鸞は越後へ流罪となりました。

しかし、越後行きは親鸞の生涯の大きな転換期となりました。生涯の伴侶となる恵信尼(えしんに)と結婚したのです。当時の仏教界では実にスキャンダラスな事件でした。


流罪から4年、さらに自分の意志で2、3年をこの地で過ごしたのち、関東へ移ると、常陸国(現在の茨城県)稲田に居を定め、布教活動を開始しました。そして、20年余をかけ、農民を中心とする”浄土真宗”の初期教団を形成していきました。

62歳のとき、家族とともに京へ戻るが、恵信尼との離別などで平穏な日々を送ることはありませんでした。しかも、関東教団に教義上の争論が起こると、混乱解決に差し向けたはずの息子・善鸞が、秘伝なるものを伝授されたと吹聴。これをきっかけに、親子の縁を切ることになってしまいました。

晩年は、激動と波乱の状態が続いきましたが、信仰と教化に専念、自らの信ずる道を歩んでいきました。弘長2年(1262年)11月28日は、娘・覚信尼、息子・道性、弟・尋有らにみとられ、90歳で入滅しました。

親鸞の行跡

越後への流罪が転機となって妻帯する

法然のもとで学んでいた親鸞ですが、ここで思いもかけない出来事にみまわれます。

法然の弟子の2人が、院の女性と密通したという噂が流れ、一派が後鳥羽院の弾圧を受けることになってしまったのです。 この際の処置は、弟子2人が死罪、法然自身も四国へ配流されています。

そして、親鸞は「藤井善信」という俗人に落とされ、越後へ配流。これに対して親鸞は、「爾れば巳に僧に非ず俗に非ず。 是の故に禿の字を以て姓と為す」と激怒。以後、名を「愚禿親鸞(ぐとく)」と改め、非僧非俗の生活を送ります。

親鸞は、越後へ流罪となったとき妻帯しました。 僧侶にとって妻帯は厳禁でしたが、 夢の中で聖徳太子「たとえ女体と交わっても、私 (救世観音)が代わりに抱かれよう。 生涯をよく飾り、臨終のときは極楽に導くであろう」と告げたという。これにより親鸞は迷わず実行した。 その女性が親鸞の最初の妻、玉日(たまひ)であるといいます。

聖徳太子

親鸞の思想

阿弥陀仏を信じるだけで成仏できる

親鸞の思想は、親鸞の没後に弟子の唯円がまとめた『歎異抄』のなかによく見てとれます。ここで親鸞は、まず「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人の仰を被りて信ずるほかに、別の子細なきなり」と、念仏こそが思想の根幹であることを示しています。

さらに、自らが愚かな凡夫であることを語った、もはや名言となった「善人をもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と続けました。悪人こそ救済の正機であるべきと説く、「悪人正機説」を展開。この言葉は、師である法然も常々、口にしていたもので、親鸞はそれを継承し、さらに強く説いていています。

「自然法爾」といわれる「衆生の救済は阿弥陀仏のはからいにまかされるものであって、衆生のほうからのはからいは不要なものである」、つまり、すべてを仏さまにおまかせする境地へ到達しています。また、自分は自力の求道者である僧でもなく、他力に安住する俗でもない、とする「非僧非俗」(「僧に非ず、俗に非ず」)と吐露した言葉も、親鸞の考え方をよく表しています。

親鸞の著作

浄土真宗の教義の根本を述べた『行信証』をはじめとして、 注釈書『唯信抄文意』、 京から関東の信徒たちに、その教えを手紙で説いたものをまとめた『親鸞聖人御消息集』『末燈抄』『血脈文集』『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末浄土和讃』 といった七五調四句を1章として、仏陀や菩薩、仏法などを讃えたものなどがあります。

親鸞は関東で布教活動を行ったのち、62歳のときに京に戻っていますが、 そこで10年間をかけて、完成に力をそそいだのが 『教行信証』 です。

このなかで親鸞は「弥陀の本願を信ずる “信の一念”に救済が確立する」と主張しています。さらに越後への流罪の際に語っ た、「非僧非俗」の言葉も記されています。

坊主

いかがだったでしょうか
今回はここまでです!

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