【 慈円 】名僧解説シリーズ

坊主

多彩な顔をもつ「慈円(じえん)」について解説していきます!

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プロフィール

  • 生没 1155〜1225年
  • 宗旨 天台宗
  • 別名 道快(どうかい)・慈鎮(じちん)

慈円の生涯

僧侶、思想家、歌人と多彩な顔をもつ

関白・藤原忠通の子として久寿2年(1155年)、京都に生まれました。兄は近衛基実(このえもとざね)、松殿基房(まつどのもとふさ)、九条兼実(くじょうかねざね)といった押しも押されぬ超名門の家柄です。

11歳で覚快法親王(かくかいほうしんおう)のもと「道快(どうかい)」と名乗り、13歳で出家。比叡山に入ると、16歳で法眼、24歳で法性寺の座主、27歳では法印と、文字どおり出世の階段を駆け足で上っていった。

当時、比叡山は朝廷と密着しすぎ、山内は俗化・堕落し、無益な出世競争が繰り返されるといったありさまでした。名門・良血の出身である慈円に対しても、最初からエリート扱い。こうした異例の出世も、必ずしも実力のおかげではなかったといえます。

兄弟のうちで、互いに最も親しくしていたのが、九条兼実でした。実際、頼朝と兼実が権力を握ると、慈円を天台座主の座に着かせています。しかし、のちに源通親(みなもとのみちちか)一派の策謀によって兼実が失脚すると同時に、慈円は天台座主の地位から追放されました。また、兼実亡きあとは、慈円は九条家を守るために、後鳥羽上皇の助けを借り、東奔西走しています。

そのかいもあって、後鳥羽院政時には天台座主に三度上り、建仁3年(1203年)には大僧正に任命されています。また、後鳥羽上皇とは歌を通じての親交もあり、歌道でもしばしば競い合ったといいます。

しかし、後鳥羽上皇が幕府打倒(承久の乱)を決意したことをきっかけに、二人の間は決別します。慈円が何度も止めるように進言したが、聞き入れませんでした。慈円が上皇を諌めたのは、九条家の安定のためであったといわていますが、このときに書かれたのが『愚管抄』であった。慈円が世を去ったのは、71歳のとき。後鳥羽上皇も敗れ、自身も失意のうちに生涯を終えたのです。

慈円の行跡


親戚関係にあり、さらには、歌道においても心を通じ合わせていた慈円と後鳥羽上皇。 そうした2人の関係が途絶えたのが、 後鳥羽上皇の討幕計画であったといわれています。

慈円は、 九条家の安定のために上皇の計画を知ると、何度も止めるように進言したが上皇は聞く耳をもちません。慈円はここまでと思い知り、最後の手段として著したのが「愚管抄」 です。この書は、道理と末法思想によって、神武天皇以来の日本の歴史の展開を説いた歴史書。その主張は日本は天皇が国王として君臨・統『愚管抄』で後鳥羽上皇の討幕計画を諌める治すべき国で、その実際の政治は、摂関・九条家が行うべきであるというものです。 あくまでも自らの出身である、 九条家の大切さを押し出したものであった。

僧侶でありながら、地位や名誉を捨てきれなかった慈円の姿を浮き彫りにしたともいえますね。

坊主

いかがだったでしょうか
今回はここまでです!

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