天台宗の開祖で、信念と高潔のエリート僧と呼ばれた「最澄(さいちょう)」を解説していきます!
プロフィール
- 生没 761〜822年
- 宗旨 天台宗
- 別名 伝教大師(でんぎょうだいし)
最澄の生涯
天台宗確立のためにひたすら地道に活動
天台宗を日本に根づかせ、発展させた最澄は、近江国滋賀郡古市郷(現在の大津)の農村出身です。幼少時(幼名「広野」)には、熱心な仏教信者で自宅を私寺にしていた父・百枝(ももえ)のもと、抜群の聡明さを発揮し、評判を博していました。
12歳で近江の国分寺に入り、15歳で得度。南都(奈良)に上がって諸大寺で学び、20歳で東大寺戒壇院にて受戒して、正式な僧侶となりました。
しかし、直後に比叡山に隠遁1してしまいます。南都は、当時、仏教の一大拠点。それだけに大胆な決断でしたが、動機は天台宗の奥義を究め、自身が理想とする「大乗仏教」の立脚点を明確にするためでした。
比叡山で、華厳・天台の経典にひたすら接していた10年余の間、その名は徐々に知れ渡りました。宮中で天皇の護持僧に、高雄山神護寺では法華経講会の講師にと高い評価を受けたのもこの時期です。最大の契機となったのは、朝廷か「還学生」という特権的な身分を与えられて出発した、遣唐使船による入唐でした。
唐では長安に向かう一行と別れて台州へ。竜興寺で道邃から天台の法と菩薩の三聚浄戒を、また、仏隴寺の行満からは天台法門を伝授されました。明州では竜興寺の順暁から両部の灌頂を受け、密教の経疏115巻や灌頂道具なども与えられました。
1年後に帰国すると、時の桓武天皇に大歓迎され、延暦25年(806年)に天台宗の国家公認を得ます。 比叡山延暦寺の基礎固めをはじめましたが、天皇が崩御すると、対立関係にあった南都諸宗から激しい攻撃を受けました。しかし、諸宗との論争を繰り返しながらも、東国伝道の旅に出るなど、比叡山に独自の大乗戒壇を設立すべく奔走、努力を続けていました。
56歳で入滅。44年後に、わが国最初の大師号が与えられました。
最澄の行跡
南都に背を向け、比叡山に籠り修行する
僧侶になった直後、 南都をあとにして、 天台宗の奥義を究めるため、比叡山で修行を開始しました。
このときに最澄が建立した草庵がのちの乗止観院で、天台宗総本山比叡山延暦寺のはじまりです。
世俗を断って山に籠ること、12年間に及んでいたよ
比叡山の大乗戒壇を待ちわびて生涯を終える
諸宗の攻撃を受けながらも、晩年、精力的に動き、 努力を尽くした事業が、独自の大乗戒壇を比叡山に設立することでした。しかし、この最後の悲願が天皇に認められたのは、56歳の生涯を終えた 1週間後でした。
最澄の思想
誰もが成仏できると説いた「一乗思想」
最澄の思想は、東大寺で受戒したあとの比叡山への隠遁と、唐から帰国したあとの比叡山での大乗戒壇設立運動との、2つの行動に明確に表れています。
まず、比叡山への隠遁ですが、これは当時の仏教界の主流派であった南都の諸宗、なかでも支配教学の法相宗に対して、天台宗の興隆・確立を目指したものでした。
一方、唐からの帰朝後の大乗戒壇設立運動も、根底には南都諸宗との教学上での対立でしたが、僧侶を養成する権限を、国家や南都諸宗の支配から独立させることが目的です。そして、それを支えていたのが天台宗の「一乗思想」です。 天台の教学とは、すべての人が成仏できるという理由を、理論的に説き明かしているもの。最澄はこれに魅かれて日本での確立を目指し、その源となる場所を得ようとしていた。
また、最澄はよく「天台密教」の確立者と間違えられますが、天台密教を確立したのは、のちの「円珍」です。 最澄自身の思想は、『法華経』の一乗思想に基づいています。
「円珍」については下記記事で紹介してます!!
桓武天皇のうしろだてのもとで天台宗を確立
唐より帰国した最澄は、病床にあった桓武天皇から宮中に呼び出され、病気平癒を祈った。この功に対し、天皇は最澄の願いを取り上げ、天台宗を学ぶ2人の学僧を年分度者(得度を許可される定員)に加えました。 これが日本天台宗の開宗となります。
最澄「一乗思想」と徳一 「三乗思想」との丁々発止
桓武天皇崩御ののち、最澄は南都諸宗に対立していましたが、まもなく東国へ伝道の旅に出、関東に滞在した。 「三一権実論争」とは、 その際、会津にいた法相宗の学僧・徳一との間にはじまった論争です。
争点は、真理(仏)に至るには3つの道があるとする法相宗の「三乗思想」 と、 天台宗の「乗思想」はどちらが真実かというもの。徳一が「小乗の人は成仏できず、大乗の人のみが成仏できる」 と説いたのに対し、 最澄は 「小乗も大乗の人も平等に成仏できる」と反論。 法相宗の差別的成仏をことごとく論破し、自らの教学の優越性に自信を深めるきっかけとなりました。
最澄のエピソード
高潔のあまり、世渡り下手
東大寺で受戒し僧侶としての第一歩を歩み出すという、エリートコースに乗っていた最澄。
しかし、すぐに比叡山へ隠遁しようとしたのは、このときの小乗戒が 「まったくの形式主義に堕し、国家鎮護・衆生済度の大任を果たし得ない」ものであったためで、南都での仏教に無常を感じたことが理由でした。 最澄は、常に表舞台を歩んでいたように見えるが、実は妥協を許さないという高潔さゆえ、南都諸宗との対立を繰り返すという、世渡り下手であった。
愛弟子・泰範が空海のもとへ行ってしまった
ライバルといわれる「空海」とは、 桓武天皇の崩御後、一時は親交を深めたことがありました。 帰朝した空海のもとへ赴いた最澄は、 新伝の密教を学ぼうと、 密教の典籍を借り受け書写して、研究しました。弘仁3年(812) には、弟子の泰範(たいはん)、円澄(えんちょう)、 光定(こうじょう)らとともに、空海より灌頂を受けています。
しかし、弘仁4年 (813) 空海より、2人には教学的な立場上、 越えられない溝があると懇請を拒絶され、以来、 仲が急速に悪化した。 しかも、 最澄が最も嘱望していた弟子の泰範が空海のもとへ行ってしまったため、最澄は空海を尊敬しながらも、 決別しなければいけませんでした。
いかだったでしょうか
今回はここまでです!
▼脚注
- 【隠遁(いんとん)】意味:俗世間から逃れて暮らすこと ↩︎
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