さまざまな著作を書きつづけた源信(げんしん)の解説をします!
プロフィール
- 生没 903〜972年
- 宗旨 天台宗
- 宗派 円仁派(山門派)
- 別名 恵心僧都(えしんそうず)
源信の生涯
膨大な数の著作を書きつづけた生涯
平安時代の天慶5年(942年)、大和国(現在の奈良県) 当麻郷生まれ。幼年のうちに比叡山に入り、良源のもとで出家し、修行を積みました。 転機は32歳のときに訪れました。例年、最澄の忌日(6月4日)に催されている法華会の「広学竪義(こうがくりゅうぎ)」で、抜群の学識を披露したのです。
しかし、源信は世の栄名を避けて横川の恵心院に隠遁して、ひたすら著作と浄業を続けた人です。初の著作『因明論疏四相違略 注釈』を書きあげたのは36歳のときでした。
40歳のときには、『阿弥陀仏百毫観法』を著しました。これは阿弥陀仏を信仰する固い決意を表明した著作として、非常に画期的な書です。阿弥陀信仰をさらに強烈・明確に打ち出したのが、4年後に発表した代表作『往生要集」です。
『往生要集』は問答体で、インド・中国の諸師の考え方を引用して、阿弥陀信仰について平易に説いたものです。『往生要集』が浄土教学の世界で、いかに名著であったかを裏づけたのが、中国・天台山の評価で、中国からは、源信に「日本小釈迦源信如来」の尊称を贈られたほどです。
大作を著す一方で、天台宗の僧として、その思想の中核である『法華経』についても著述しています。さとりに至るには何よりも、まず『法華経』を体得することが大切で、それが唯一の教え(=一乗)であると説いた『一乗要決』全3巻を著しています。
ところで、源信は一体、浄土宗の僧なのか、天台宗の僧なのかという疑問が出てきます。一方では日本浄土教の基礎を築いた人物とされて、生涯の念仏は20億遍と伝えられる。しかし、源信自身は〝天台宗の僧”として一貫してました。自身のなかには何の矛盾もありませんでした。つまり、彼の「阿弥陀信仰」とは、あくまで『法華経』が基礎となっていたからなのです。
思索と執筆で一生を終えたのは、76歳のとき。「恵心僧都」とは、彼が比叡山の恵心院に住み、権少僧都に任ぜられていたことによります。
源信の著作
代表作『往生要集』は浄土信仰を広めた名著
代表作である「往生要集」は、10章から成り、それぞれを詳しく解説しています。浄土に往生するためには、単なる口称念仏ではなく、仏の両方の意味をもつ“念仏” が最も重要であると説いています。この書がのちに法然から親鸞と受け継がれる“浄土宗”“浄土真宗” の源流となりました。また、ほかにも「一乗要決」 3巻、「観心略要集」 1巻 「大暴対俱舎抄」 14巻など、数多くあります。
往生要集
- 「厳離穢土(おんりえど)」
- 「欣求浄土(ごんぐじょうど)」
- 「極楽証拠」
- 「正修念仏」
- 「助念方法」
- 「別時念仏」
- 「念仏利益」
- 「念仏証拠」
- 「往生諸行」
- 「問答料簡(きょうけん)」
いかかがだったでしょうか
今回はここまでです!
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