庶民のために尽力した「空也(くうや)」の解説をします!
プロフィール
- 生没 903〜972年
- 宗旨 天台宗
- 別名 空也上人・弘也・光勝
空也の生涯
市井に生き、庶民を助けた市聖
延喜3年(903年)生まれ。出身に関しては不明ですが、醍醐天皇の皇子説や仁明天皇の皇子である常康親王の子という説などがあります。
青年期は行者として諸国を巡歴していました。20歳を過ぎてから尾張・国分寺で剃髪、沙弥となりました。「空也」と名乗りはじめたのはこの頃です。以来、常に「南無阿弥陀仏」を唱え、各地で布教。その際、空也は踊り念仏をして念仏を広めた。
30歳の半ばからは京都を中心に布教を開始しました。貧窮にあえぐ者、病に苦しむ者に施すなど、自分の一切を捨てて他人のために働く姿は、のちに登場する一遍が理想としたものです。その行いの数々から人々は「市聖」「市聖人」また「阿弥陀聖」と呼んで、仏のように拝み讃えました。こうした功労は高く評価されて、比叡山の戒壇院で大乗戒を授けられ、七〇歳の生涯を西光寺で終える。
空也の行跡
井戸掘り、橋の造成などで庶民の暮らしを助けた
京都、奈良、大阪付近を旅していた頃、悪路があると鍬で平らにして、 橋のないところには橋をかけて、井戸がないところでは水脈を見つけて井戸を掘るなど、 庶民の暮らしを助けました。
晩年は、 六波羅蜜寺で多くの人々の尊敬を受ける
大乗戒を授かったのち、 空也は人々から浄財を募って観音・梵天・帝釈天・四天王の像を造立しました。さらに『大般若経』1部600巻を14年かけて写経。西光寺(現在の六波羅蜜寺)を建てて供養会を行った。こうして空也は、ここで多くの庶民たちに慕われ、尊敬される晩年を過ごした。
囚人のために卒塔婆を立て、親を亡くした子を慰めた
空也の行いを説話集に見ると、 囚人のために卒塔婆を立てています。 また、父母を失った幼児を慰めたり、 松尾明神に着古した小袖を脱いで与えた、などの話が伝えられています。
無縁仏の亡骸を供養
出家する以前から行者として諸国を歩いていたが、荒野に放置された亡骸をみると、油をそそいで火葬。 阿弥陀仏の名写を唱えて供養しました。
空也の行いに心を打たれた平定盛
空也は鹿の鳴き声を愛していたが、その鹿が平定盛に殺されると深く悲しみ、毛皮で衣をつくり、角を杖の頭につけて念仏を唱えた。 それを聞いた定盛は、自らの行いを悔い 空也に従って念仏踊りをはじめたといいます。
いかだだったでしょうか。
今回はここまでです!
コメント