律宗の開祖であり、盲目の仏教僧と呼ばれた「鑑真(がんじん)」を解説します!
プロフィール
- 生没 688〜763年
- 宗旨 律宗
- 別名 過海大師(かかいだいし)・唐大和上(とうだいわじょう)
- 律宗の開祖
鑑真の生涯
荒波にもまれた生涯
中国の揚州江陽県(ようしゅうこうようけん)の生まれです。長安で具足戒を受けてからは、律と天台学を学び、戒律の講義や授戒を行い、古寺修復、一切経を書写するほか、貧民救済に尽力、信望が厚いです。
日本では、授戒制度や戒律研究を確立すべく、朝廷が伝戒師を招請。懇願された鑑真は来日を決意しました。
一行の渡航は5回企てられましたが、度重なる失敗で、ようやく鑑真が日本にたどりついたのは6回目の渡航による天平勝宝4年(754年)でした。数々の苦難の末に来日した鑑真に対する、日本での信望と帰依はたいへんなもので、天皇までも「授戒伝律はすべてまかせる」という使を送ったほどであった。
その後、大仏殿前に戒壇の築設、聖武天皇への菩薩戒の授与なども行い、天平宝字3年(759年)には唐招提寺を建ててそこに住んで、日本律宗を開きました。
鑑真の行跡
揺らぐことがない来日の決心
鑑真がはじめて中国を出る決意をしてから、来日に至るまでは、長い歳月がかかりました。 この間、渡航は5回失敗し、36人が死亡しています。しかも、自身も失明するという事故に遭いましたが、来日の決心は揺るぎませんでした。
来日を果たすまで12年
日本から2人の僧が渡航し、 鑑真が招請されたのは55歳のとき。 すぐに渡航を決意するが、日本への渡航は困難をきわめた。 1回目は弟子の内輪もめが官にばれて失敗。 2回目は難破、3回目は越州の僧の反対で挫折。 4回目には鑑真の高弟・霊裕が官に密告したため、一行が捕えられてしまったのである。 5回目は、台風に遭遇して海上を漂流後、海南島に漂着。 このとき鑑真は失明するという事故にみまわました。 そうしたとき、日本から遣唐使が来航しました。一行はこの船で、密航というかたちで、12年目にしてはじめて日本 (薩摩半島)へ到着。 鑑真は67歳になっていました。
まとめ
もっと詳しく「鑑真」について知りたい方はぜひ、下記の本を読んでみてください。今回はここまでです!
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