本願寺を確立させた「覚如(かくにょ)」の解説をします!
プロフィール
- 生没 1270〜1351年
- 宗旨 浄土真宗
- 宗派 本願寺派 ※後の浄土真宗本願寺派と真宗木辺派
- 別名 宗昭(しゅうしょう)・毫摂(ごうしょう)
親鸞の曾孫として本願寺を確立
文永7年(1270年)京都生まれ。親鸞の曾孫です。
生まれのおかげもあって早くから経典に親しみ、17歳のとき一乗院で受戒、一八歳で親鸞の孫・如信、さらに翌年、親鸞の弟子・河和田の唯円から他力の法門を受けました。その後は、ほとんど東山大谷の親鸞廟堂で過ごし、浄土宗西山派の教えや、「一念義」を学ぶ。覚如は親鸞の血脈を受け継ぐ正統たるべく、修学の日々を送った。
そして25歳のとき、自分が継承者であることを自覚し、同時に、それを門徒たちに知らしめるために、曾祖父・親鸞の遺徳を讃える『親鸞聖人伝絵』を著します。 大谷の親鸞廟堂の正統性を明確に打ち出しました。如信から聞いた親鸞の言行を筆録した『口伝鈔』でも覚如は、親鸞如信覚如という系譜が嫡流であることを表そうとしています。
親鸞の継承者になるためには、親すしよく鸞廟堂の“留守職”へ就任することが最大の条件で、それが自分の道であると覚如は信じていました。ところが、父の異父弟・唯善がこれに名乗りを上げたため、二人は激しく対立し、数年間にわたり、激しい論争を展開する。
ところが、父・覚恵が病に倒れると、唯善に廟堂を占拠され、親子は二条朱雀の近くへ避難を余儀なくされました。
しかし、関東の門弟たちの支援を背景に伏見院に訴え出ました。そこで自身の正統性を強く主張すると、唯善も同様に訴え出たために、問題が表面化。ついに青蓮院での対決となりました。ここでようやく決着がついて、覚如は廟堂へ戻ることになりました。この留守職の就任を機に念願であった廟堂の“寺院化”に着手しはじめます。さまざまな曲折はあったものの、徐々に体裁を整えて、計画は着々と成就。これが「本願寺」となっていいきます。
覚如は、親鸞廟堂の“寺院化”をはじめ、その確立に奔走するなど、曾祖父・親鸞、また本願寺確立のために82年の生涯を捧げた人である。そのため、彼が実質的な「本願寺開創者」といわれている。
覚如の行跡
息子と絶縁してでも本願寺を守る
45歳頃から病気がちであった覚如は、長子存覚に留守職を譲り、大谷を出て一条大宮に移り住みました。しかし、存覚と宗義上のことで不和となり、留守職を取り消し、義絶しました。以来、存覚には留守職につかせず、孫の善如を後継者とした。本願寺を開き、その法灯を守ることに生涯を費やした覚如の強い信念がうかがえます。
いかがだったでしょうか。
今回はここまでです!
コメント