劇的な死を遂げた「快川(かいせん)」の解説をします!
プロフィール
- 生没 ???〜1582年
- 宗旨 臨済宗
- 宗派 臨済宗妙心寺派
- 別名 紹喜(しょうき)・大通智勝国師
快川の生涯
織田信長と徹底的に抗戦した豪胆な禅僧
生年は不詳ですが、その劇的な死にざまは名言とともに特に名高いです。美濃国(現在の岐阜県)の豪族・土岐氏の家に生まれました。妙心寺で禅の修行を積んだ臨済宗の僧です。
後に郷里の寺に住持するが、その地の支配者と対立。かねてより親交のあった武田信玄を頼って、甲斐国へ逃れました。信玄は信仰心に厚く、なかでも快川を特に庇護、信頼していました。信玄は快川を師と仰ぎ、後に、菩提寺となった恵林寺の住持として迎えています。
さらに、信玄亡きあと、息子の勝親も同様に快川に帰依。武田家と恵林寺の関係は、友好かつ理想的でした。
この理想的な関係を打ち壊したのが織田信長である。 天下統一の旗のもと、大軍を率いて甲斐国に攻め込み、天正10年(1582年)3月、天目山で武田家を滅ぼしてしまう。
恵林寺にも戦禍は及びました。しかし、快川および百余名の僧は決して降伏しませんでした。そして、信長軍に徹底して抗戦しました。
これに激怒した信長は、容赦ありませんでした。僧たちを山門の楼上にまで追いつめ、そこで寺に火を放ち、僧もろとも焼き討ちにしました。
そのとき快川は、燃えさかる炎に包まかつれ、坐禅を組んだまま、「安禅は必ずしももち山水を須ひず、心頭めつきやくを滅却すれば火も自ら涼し」という言葉を遺して、悠然として寺と運命をともにしたという。
快川のエピソード
「心頭滅却すれば火もまた自ら涼しーー」の名言を遺した最期
中国の6世紀の詩人が詠んだもので『碧蔵録』に出てきます。「心頭滅却すれば」とは、心を滅する ーー無にするという意味です。そうすれば 「火もまた自ら涼し」というわけです。「火もまた自ら涼し」とは、火さえも涼しく感じると考えがちですが、実は意味としてはまったく逆で、「暑いときには自分が“暑”になり、寒いときには自分が “寒” になりきる」状態をいった言葉。 つまり、暑さ寒さに相対するのではなく、同化せよということで、 快川は炎に包まれながら「自らも炎になりきった」。だから熱くないといったのです。
いかがだったでしょうか
今回はここまでです!
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