【 円珍 】名僧解説シリーズ

天台宗のエリート僧である、円珍(えんちん)の解説をします!

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プロフィール

  • 生没 814〜891
  • 宗旨 天台宗
  • 宗派 天台宗寺門派
  • 別名 智証大師(ちしょうだいし)

円珍の生涯

弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡(現在の香川県善通寺市)生まれです。母が佐伯氏の出で、空海の姪に当たるため、生時より空海とは因縁が深かったが、真言の門はくぐりませんでした。天台宗を信奉していた叔父に従って一五歳のとき比叡山に入り、初代座主・義真の弟子となりました。

円珍はかなりのエリート僧であった。まず、19歳で出家受戒。以降、比叡山で修行を続け、規定の12年後に一山の僧侶に推されて真言学頭に任せられました。

念願の入唐が実現したのは、39歳のときです。まず、福州でインド僧・般若怛羅三蔵から梵語(サンスクリット語)を学び、次いで天台山に巡礼。さらに開元寺では天台教学、青竜寺では両部の灌頂と蘇悉地の大法を授けられました。6年を過ごし、441部1,000巻の経論・典籍を携えて帰国しました。

帰国後は、清和天皇をはじめ朝廷から、特に厚い信頼を得ました。

まず、第5代の「天台座主」を、そしてそのかたわら近江の園城寺(三井寺)の別当職をも務め、めざましい活躍ぶりでした。貞観8年(866年)には、この園城寺を「天台別院」としている。また、天皇ら30余人へ灌頂を行い、さらには、藤原ごじそう良房の娘・明子の護持僧になるなど、エリート僧にふさわしい活躍をされました。

円珍は、先輩・円仁と同様、天台宗の密教化を推し進めました。しかし、その根本経典は、天台宗の根本経典の『法華経』ではなく、『大日経』です。その点ではむしろ空海(弘法大師)に近いです。しかし、円珍が空海の真言密教や著書を支持していたかといえばそうではないのです。逆にこれらを厳しく批判していました。血縁の深さなどは一切関係なかったと思われます。こうして天台宗の興隆に貢献した後、寛平3年(891年)、78歳でその順境の生涯を閉じました。そして、36年後に「智証大師」を諡号されました。円珍の没後は、円仁の弟子たちによる山門派と円珍の弟子たちによる寺門派の対立が激化。これはのちに天台宗を二分させることになりました。

頭頂が異常にとがっていました。中国僧から「吉凶を占いやすい頭蓋骨。 無頼漢に殺されかねない」といわれたほど。

円珍の思想

『法華経』より『大日経』のほうがすぐれていると明言

円珍は、「大日経」は、釈迦が一番あとに説いた終極の教えであり、最上のもの、大乗経典中の王であるとしました。 円仁がよりどころとする「法華経」より、「大日経』のほうがすぐれていると明言しました。 これが、後に円仁門徒(山門派)と円珍門徒(寺門派)が激しく争うきっかけとなりました。

円珍の伝説

黄不動を描かせる

円珍が比叡山で修行中、坐禅をしていると虚空に金人が現れ、「われは不動明王なり、汝を守護するために現れた。わが姿を描き信仰せよ」といいました。そこですぐに画士に描かせたのが黄不動であるという。 園城寺蔵の全身黄色の不動明王がそれと伝えられている。

不動明王

いかがだったでしょうか
今回はここまでです!

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