天台宗を盛り上げた「円仁(えんにん)」を解説していきます!
プロフィール
- 生没 794〜864
- 宗旨 天台宗
- 宗派 天台宗山門派
- 別名 慈覚大師
円仁の生涯
最澄の信頼に応えて天台宗を盛り立てる
延暦13年(794年)、下野国(現在の栃木県)に生まれました。幼少より地元の名僧に学び、14歳で比叡山に入り、20歳で得度、22歳の東大寺で具足戒を受けたエリート僧です。
その後、修行を続けながら、最澄につきしたがって布教を行った。そのため最澄の厚い信任を受けました。かねてより唐での修学を望んでいましたがなかなかうまくいきませんでした。一度目は唐へは着いたものの、天台山への巡礼の許可が下りず、一行は帰朝の命令を下され、何もしないまま帰国することになりました。
ようやく入唐できたのは、再三企密入国が成功したときであった。まずは赤山法華院に身を寄せ五台山を巡礼。空海が求法した青竜寺へ赴き、義真から密教の奥義を授かりました。また、当時の中国の「外国人僧侶の還俗・国外追放令」にふれると、避難した赤山法華院で2年を過ごし、結局、唐において求法9年の実績を得て帰国しました。
帰国後は比叡山を中心に活動を展開していきました。彼は、天台宗をさらに密教化した、いわゆる「台密」を大成させました。そして、この密教的色彩の濃い教学の呪術的な要素が、時の文徳天皇をはじめ貴族階級の関心をきいちようひいた。仁寿4年(854年)には、初の公式承認による「天台座主」の座を与えられた。
また、京都以外の土地へも精力的に布教を行い、関東・東北へも教えを広めました。そのおかげで天台宗はこの頃に飛躍的に拡大しました。貞観6年(864年)、 71歳で没。翌年、師・最澄とともに日本における最初の大師号である「慈覚大師」を諡号された。また、円仁の特筆すべき点は、念仏を修行の一環に取り入れたことである。ゆくゆくはこの一派が山門派(比叡山派)となり、日本浄土教の祖である源信を生むことになります。
円仁の行跡
「念仏三昧」を修行に取り入れる
円仁は、浄土教の「念仏三昧」を修行に取り入れたことでも有名です。やがて、弟子・相応の「不断念仏」へと受け継がれていきます。これは僧侶が交代で念仏を唱えるもので、一定期間、四六時中絶えることなく続けられます。
密入国を犯して得た密教の奥義
当時、空海による真言密教が盛んでしたが、天台宗でも遅れをとらぬまいと円仁が渡唐を企てます。 何度も密入国を試み、1年後に成功。 唐に9年滞在し、密教の奥義を究めました。天台宗の密教化によって、天台宗の勢力は拡大されていきました。
いかがだったでしょうか。
今回はここまでです!
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