戦国武将でもあり僧侶でもある「恵瓊」を解説していきます!
プロフィール
- 生没 1538〜1600
- 宗旨 臨済宗
- 宗派 臨済宗東福寺派
- 別名 道号:瑤甫(ようほ)・安国寺恵瓊
恵瓊の生涯
禅僧でありながら戦国武将
天文7年(1538)の生まれ。安芸(現在の広島県) 守護であった武田氏の末裔といわれ、甲斐国の武田氏と同族です。
4歳のとき、祖父が戦死し、父も攻められ自殺したため、家臣に連れられて安国寺へ逃げ込みました。それ以降、仏門の修行に精進するという少年時代を過ごしました。
16歳のとき、仏教、外交の両面で生涯の師と仰ぐ竺雲恵心にめぐり会います。その直後、京都・東福寺に入り、これが後の恵瓊の人生に、大きく影響することになります。
東福寺は、建仁寺に次ぐ大禅寺で、人の出入りが多いです。当時、彼は権勢を誇った毛利家の外交を一手に引き受けていましたが、この寺の住職をしていたことは、情報収集に大いに役立っていました。その証拠に人物評においての判断力は、実にみごとであったと伝えられています。
また、天才的な予知能力をもっていたことでも知られ、本能寺の変の10年前に、信長の失脚と藤吉郎(秀吉)の出世まで予言しました。そして、その能力と外交手腕は、天正 10年(1582)、 高松城攻めのときに発揮されます。
毛利の代表として、秀吉側の黒田官兵衛と交渉し、高松城の清水宗治の切腹を条件に和議を整えようとしました。しかし、その直後、本能寺の変の知らせがきました。形勢は逆転、秀吉側が窮地に追いこまれました。これからが恵瓊の面目躍如。秀吉がいずれ天下を取ることを読み、毛利側を抑えて秀吉に恩を売った。
これによって、恵境は秀吉に才を見込まれ、外交参謀として大名に取り上げられ、安国寺と京都の東福寺塔頭の退耕庵の住職、そして毛利家の顧問を兼ねながら、伊予和気郡(松山市付近)で二万三千石を与えられました。のちには六万石にまで達するほど重用されたのです。
しかし、秀吉が没すると、恵瓊の運命も下降線の一途をたどる。63歳のとき、関ヶ原の決戦では西軍に味方して敗れ、京都の東本願寺に潜伏していたところを捕えられ、斬首されました。
恵瓊の行跡
天才的な予知能力で毛利家の発展をはかる
恵瓊が僧侶から大名まで上りつめたのは、すぐれた人物眼をもっていたことです。僧として活躍していたときに、恵瓊の能力はいかんなく発揮されました。 信長の失脚と秀吉の出世を予言したのは有名。 これは当時、 誰も予想だにしな天才的な予知能力で毛利家の発揮された。
本能寺の変後、秀吉に敵対しようとする毛利家に「秀吉はいずれ日本を手の内にするほどの人物。小者と見くびってはいけない」と忠告しています。 天才的な予知能力は、禅寺での修行の賜物ともいわれる。
恵瓊の最期は、すぐれた禅僧であったことをうかがわせる。刑場の露と消えるとき、「清風は明月を払い、 明月は清風を払う」と辞世の句を詠んでいる。
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