【 栄西 】名僧解説シリーズ

臨済宗の開祖であり、鎌倉幕府の下で活躍した「栄西」を解説します!

栄西
目次

プロフィール

  • 生没 1141年〜1215年
  • 宗旨 臨済宗
  • 明庵(道号)・葉上房・千光国師

栄西の生涯

時代と権力のニーズに合わせて臨済宗を確立

永治元年(1141年)、備中国吉備津宮(現在の岡山市)生まれ。11歳で天台密教を学び、14歳のとき比叡山で具足戒を受けた。27歳で宋へ留学し、天台密教を修行で背丈を伸ばすさらに深める。帰国後は10年間九州で密教と禅の研究に没頭。47歳のときに再び入宋する。天竺行きはならなかったが、5年間滞在し、臨済宗黄竜派の禅の修行。嗣法の印可を授けられて帰国した。帰国後は九州を中心に布教活動を展開。博多には、わが国最初の禅寺といわれる聖福寺を建立した。また、北条政子の支援のもと、京都に建仁寺を開創。この時期、禅宗の布教に活躍する。

栄西の思想

天台密教と禅を融合させた

栄西はもちろん臨済宗という禅宗の高僧ですが、仏教思想の面からみれば、天台密教と禅の思想を併せもっていました。栄西にとって、決して矛盾するものではなく、天台密教と禅とをとりもつものが仏教の戒律だと考え、その戒律を厳しく守ることを教えました。実際、鎌倉幕府に接近したのも、禅僧としてというよりも天台密教の僧としてであって、『吾妻鏡』にもそのように記録されています。これは栄西も承知のことで、京都に開いた建仁寺も、天台・真言・禅の三宗兼学の寺として開いている。禅が新興の宗派であったことから、他宗派からの圧力を避けるためとも考えられるが、栄西自身、臨済宗独立の意思がなかったともいわれる。また、栄西は臨済宗が発展するために、鎌倉幕府と親交をもつなど時の権力を大いに利用した、ある意味では策略家でもあった。

栄西のエピソード

二日酔いの将軍に茶とともに 「喫茶養生記」を献じる

栄西は中国から茶の種を持ち帰り、茶を広めた日本の“茶祖”。自ら茶の効能を記したものが「喫茶養生記」。栄西は、二日酔いで苦しんでいる鎌倉幕府三代将軍・源実朝に、お茶とこの本を献じた。

修行で背丈を伸ばす

栄西は背の低いことを気にし、真言密教の「虚空蔵求聞持法」を用いて100日間祈祷。その結果 12センチも
伸びたという。

大師号要求という前代未聞の行動をとる

栄西は、自ら朝廷に大師の称号が欲しいと頼んだ。前例がないとして拒否されたが、これは当時でもかなりひんしゅくをかった。栄西の歴史的評価が定まらない原因の一端ともいえる。

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