時宗の開祖であり、一切を捨てた遊行の僧を解説していきます!
プロフィール
- 生没 1239年〜1289年
- 宗旨 時宗
- 別名 智真・証誠大師
一遍の生涯
大衆に念仏を広めるために全国を行脚
伊代国(現在の愛媛県)道後に生まれました。祖父の代から鎌倉幕府の実力者という家系でしたが、承久の乱で没落。さらに10歳のときに母を失ったため、出家しました。13歳で太宰府の聖達(法然の孫弟子)の弟子となり、修行を積み、浄土教の骨の髄まで身につけました。
一時、父の死などで還俗しますが、数年後に再び出家。地元の窪寺で3年ほどの修行を重ね、そこで「阿弥陀仏のさとりと衆生の救済とは同時のもので、これを可能にするのは“南無阿弥陀仏”という名号である」とさとりを開きました。その後、伊予を離れると、過度の衣食住や家族などの一切を捨て、一般の人々に念仏をすすめてまわり、一所不住の生活を送りました。「捨聖(すてひじり)」「遊行上人(ゆうぎょうしょうにん)」と呼ばれるのはそのためです。
しかし、どんな教えを説いても、それを拒否されたらどうするかという悩みは、常についてまわりました。そこで熊野権現に教えを請うと「信不信、浄不浄を問わず、ただ教えを広めよ」という夢告を得ます。つまり、信仰の有無に関わらず、阿弥陀仏は救ってくださる。だから迷わず教えを広めよ、ということです。まさに天啓を受けた思いで、小さな紙片に“南無阿弥陀仏”と記した札を配り歩く(賦算)という、独自の布教方法を考えついたのであった。
こうして全国を遊行するうちに、慕う人々(時衆)があとに続くようになり、さらに“踊り念仏”がプラスされた布教スタイルが完成しました。その人気は、鎌倉、東海道を経て、京に上がったとき頂点に達しました。
その後、念仏僧や遊行僧ゆかりの寺を歴訪。備中、備後、四国へも訪れ、兵庫観音島で入滅。51歳でありました。
一遍の行跡
寺も弟子もなく「救われたい」という願いすらも捨てた
一遍は最初の遊行に出たときには、妻と娘、従者ひとりを同行していました。しかし、熊野権現の夢告によって、すべてを阿弥陀如来にまかせると決意してからは、過度の衣食住、郷里、家族などすべてを捨て、遊行を続けていきました。また、一遍は教団をもとうとする気はまったくないため、ひとりの弟子もとりませんでした。
一遍の思想
賦算、踊り念仏など身をもって、その思想を広めた
“賦算”は、小さな紙片に「南無阿弥陀仏」という名号を書いた紙を配り歩く、一遍独自の布教活動です。今でいう、広告のビラ配りと同じようなものですが、一遍は配るときに、この名号札そのものに絶対的な力があると説いていたため、人々は救いを得ることができる証拠品として、大事に受け取ったといわれています。
“踊り念仏”は、もとは空也がはじめたものです。「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら踊ります。名号を唱えることによって、あるいはすべての人々が阿弥陀仏に救われるという約束があることを信じて、その喜びのあまり自然に体が踊り出したといいます。
一遍の思想
「南無阿弥陀仏」に絶対の力がある
一遍の理想は「市の聖」と呼ばれた”空也上人”で、空也を「わが先達なり」と崇めていました。空也に遊行僧のあるべき姿を見ていたためでしょう。
宗教上の理想としていたのは、浄土宗の教え。なかでも”口称念仏”によるさとりの境地でした。浄土宗といえば法然、親鸞、一遍とつながりますが、念仏に対してのとらえ方は、3人とも違います。
法然の教えは、さとりに至るいくつかの方法のなかから、特に念仏を選び取った(選択念仏)。親鸞の教えは阿弥陀仏への信心が起きたときにすでに救われると説いています。一遍の教えは、これからさらに進んで、「南無阿弥陀仏」という名号そのものに絶対的な力があるといいます。
したがって、衆生の信・不信、浄・不浄は関係ないです。ひたすら名号を唱えれば、阿弥陀仏と衆生と名号を唱えれば、阿弥陀仏と衆生と名号とが渾然一体となり、そこに救いの世界があるとします。
一遍は、こうした信仰を名号札を配る”賦算”と”踊り念仏”によって、広めようとしたのです。
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