【 隆光 】名僧解説シリーズ

坊主

5代将軍徳川綱吉の護持僧であった「隆光(りゅうこう)」の解説をします!

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プロフィール

  • 生没 1649〜1724年
  • 宗旨
  • 別名 栄春

隆光の生涯

悪法「生類あわれみの令」とともに没落

江戸中期の新義真言宗の僧。大和添下郡二条村生まれ。唐招提寺の朝意のもとで仏門に入り、万治3年(1660年)、長谷寺の浄泉亮汰に学びました。

さらに奈良諸寺で唯識、華厳、三論、倶舎を修めます。貞享3年(1686年)に、筑波山知足院住職となって、江戸城中鎮護の祈禱を務めたが、これが運命の転機となります。

これによって時の将軍綱吉に認められて、権僧正に抜擢されました。以来、出世の階段を順調に上がる。

まず、神田橋外に五万坪の土地を賜り、知足院をここに移す。その後、僧正に任ぜられると、寺領を500石加えられて1500石とし、寺名を護持院と改めます。その後、新義真言宗僧録司(僧侶を取り締まる役職)を命ぜられて、大僧正になります。僧として最高の地位に就くと、次は綱吉とその生母桂昌院に取り入りました。そこで、実子を強く望んでいた綱吉のよりどころとして、のちに、天下の悪法とまでいわれた「生類あわれみの令」の発布をすすめました。この令が極端に走ったことも、隆光が深く関与していたとされています。隆光は僧として、また政治家として得意満面であった。

その後、駿河台の成満院に退きましたが、綱吉が没すると同時に彼の権力も急激に衰退します。大和の超昇寺に隠居、76歳で没しました。

坊主

いかだだったでしょうか
今回はここまでです!

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