臨済宗の黄金期を築き上げた「夢窓(むそう)」の解説をします!
プロフィール
- 生没 1275〜1351年
- 宗旨 臨済宗
- 宗派 夢窓派
- 号 疎石(そせき)・正覚(しょうかく)・心宗(しんしゅう)
- 諡号 普済(ふざい)・玄猷(げんゆう)仏統(ぶっとう)・大円国師(だいえんこくし)
夢窓の生涯
理論派の禅で臨済宗の黄金期を築く
建治元年(1275年)、伊勢国(現在の三重県)で生まれました。4歳で甲斐国(山梨県)に移り、9歳のとき出家、18歳で奈良に上がり、天台・真言を学びました。彼の禅は「理(理論)」「機関(坐禅工夫)」を重視し、それをさとりに導くための手段とするが、天台・真言の影響が強いのは、この頃の修学の影響です。
禅に興味を抱いたのは、甲斐に戻った20歳の頃です。以降、京都や鎌倉で本格的に禅の修行を開始しました。
中央の権力と結びつくことを嫌い、甲斐や美濃、土佐などの山中で修行を重ねたましたが、彼自身の意に反し、天皇・朝廷、時の権力者たちから多くの支持を得、住持となったり開創した寺院は非常に多いです。
七代の天皇から国師号を贈られ、七朝の国師として崇められ、門弟の数は一万人を超えたといわれています。
嵯峨の臨川寺で77歳で没しました。
夢窓の行跡
夢で見たお告げに従って、禅宗に進む
夢窓が禅に転じたきっかけは、いくつか伝わっていますが、そのひとつが“夢のお告げ”です。
ある夜、 夢のなかで中国の疎山、 石頭という2つの寺に詣でました。すると老僧が現れて、1本の掛け軸を示します。 広げると達磨の像が描かれていました。 達磨はいわば、 禅宗の教えを確立した人物です。 夢から覚めた夢窓は、自らの進む道が禅宗であることをさとったといいます。そして、夢に出てきた2つの寺から「疎」と「石」の文字ずつを取って、 自分の名前を「疎石」としたといいます。
名造園家、文学者としての顔
多くの禅寺を開創しましたが、同時に庭園をつくった造園家としても名高いです。
彼の手がけた天龍寺、西芳寺(通称:苔寺)、恵林寺(えりんじ)、瑞泉寺(ずいせんじ)などの庭園は、今でも名庭として知られています。これらは、修行において重視した「理致」の具体的な表現のひとつだといいます。また、和歌や漢詩にすぐれた文学者でもあり、 五山文学の中心人物でもあります。
いかがだったでしょうか
今回はここまでです!
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