政界にも君臨した「道鏡(どうきょう)」を解説します!
プロフィール
- 生没 ???〜772年
- 宗旨 法相宗
- 別名 弓削禅師(ゆげぜんじ)
道鏡の生涯
女帝の寵愛を受け、政界にも君臨した怪僧
生年月日も育ちも不明の謎に包まれた怪僧。その名は、僧侶というよりも女帝・孝謙上皇の黒幕的存在として知られ、政僧として、暗躍していました。
良弁の師である義淵の弟子で、法相宗の教学を修めます。また、禅や梵(サンスクリット語)にも通じ、僧侶として決して劣っていたわけではないです。さらに、葛城山にこもって呪験力を身につけていた。当時、しばしば東大寺の写経所から『孔雀王呪経(くじゃくおうじゅきょう)』のような呪術関係の経典を借り出していたといいます。
平城京の禅師(看病禅師)となったのは、こうした、どこかしら怪しげながらもすぐれた力が買われたためです。 そして、これが彼の特異な人生のはじまりでした。
折しも、聖武天皇の皇女から皇位につき、上皇となっていた孝謙上皇が病に伏していました。道鏡が禅師として看病したところ、たちまち平癒しました。これに感激した上皇は道鏡を絶賛し、その教えに帰依。以降、惜しみなく寵愛し、あらゆる便宜をはかりました。
その背景には、上皇が両親を亡くして寂しい境遇にあったこと、また、ずっと独身を通していたことなどがありました。度を越した上皇の寵愛ぶりを見て、周囲には2人が男女の仲にあるなどのスキャンダラスな噂が流れていました。
こうして孝謙上皇の寵愛を一身に浴びるようになると、やがて少僧都、さらには「太政大臣禅師(だいじょうだいじん)」という独特の権力の座を与えられて、法王になり、中央政界にも君臨するようになりました。
さらに、その権力に加速がついて、狩猟の禁止、貴族の墾田を一切禁じるなどの仏教重視、公卿抑圧の政策を進めていった。
一方で、自分の一族を優先的に取り立てるなど、もはや遠慮なく自在に政治を動かしました。
しかし、称徳天皇(孝謙上皇が再び天皇の位についたのちの諡号)が崩御すると、急速に力を失い、白壁皇太子一派によって下野国へ追放。その地で没しました。 しかも、僧ではなく一庶民として葬られたといいます。
道鏡のエピソード
称徳天皇の寵愛を裏切った?天皇の位を欲しがったが失敗
孝謙女帝のうしろだてで道鏡は異例の出世を遂げます。臣下としては最高位の太政大臣、そして僧侶としても最高の、天皇と同等の法王にまで上りつめました。
そこで、名実ともに天皇の位を欲しがった道鏡は、宇佐八幡神託事件を起こします。 これは、道鏡の弟の大掌師・弓削浄人や大宰主神らが企てて、「道鏡が天皇につけば天下太平となる」 との神託をいつわって奏上した謀略です。 しかし、和気清麻呂によって、この神託は阻止されてしまいます。
この事件後も、称徳天皇は道鏡を諌めなかったといいますが、 称徳天皇崩御後、 道鏡は左遷されました。
いかがだったでしょうか
今回はここまでです!
コメント