【 空海 】名僧解説シリーズ

空海
坊主

空海(くうかい)ときけばお坊さん?
と思い浮かべる人は多いんじゃないかな…

この前、授業で習ったけど、空海は
「真言宗」を開いたことしか覚えてない…

坊主

それだけでも十分だよ。
もっと詳しく解説するから頑張ろう!

ありがとう!
よろしくお願いします!!

目次

プロフィール

  • 生没 774〜835年
  • 宗旨 真言宗
  • 別名 遍照金剛(灌頂号)・弘法大師・お大師さま
  • 真言宗の開祖

空海の生涯

謎の多い、仏教界のスーパースター


奈良時代末期の宝亀5年(774年)6月15日、四国の讃岐国(香川県)屏風が浦に生まれたといわれています。父は名門・大伴氏の流れをくむ佐伯氏の一族で、地方の中堅豪族。母は渡来系の氏族・阿刀氏の出。また、地方の名門に生まれた御曹司でありました。幼名は真魚と呼ばれています。

母方の伯父・阿刀大足から論語・孝経など漢籍を習い、15歳のとき都へ。 18歳で大学の明経科に入学し、儒・道・仏の「三教」を修得。

その後、約10年間の行動は、24歳で出家宣言の書”ともいわれ『三教指帰』を著したこと以外は謎です。20歳の頃に受戒した、四国の各地で山岳修験者をしていた、などという説はあるものの、いずれもはっきりしたことはわかっていないです。

平安朝期に入った延暦23年(804年)、31歳のとき遺唐使船団の一員となりました。 そして、2年数ヶ月間を過ごした長安で、青竜寺の高僧・恵果から、密教の奥義をすべて伝授されたのです。

帰国の3年後、高雄山寺に入住。弘仁7年(816年)、嵯峨天皇に高野山の土地を賜り、3年後に金剛峯寺を完成。そこを真言密教の修行の聖地としました。また、嵯峨天皇から与えられた東寺を真言密教の根本道場としました。当時としては画期的な一寺一宗、真言宗のみの寺と定めました。

その後、2つの寺を根拠に、真言密教の基礎を確立していきます。『秘密曼荼羅十住心論」の著作、貴賤貧富の別なく募った学生に、仏教はもとより、儒教・道教・陰陽・法律・工芸・医学・音楽などまで修めさせる、 総合学問機関「綜芸種智院」の開設なども、この時期の功績です。

承和2年(835年)3月21日、高野山で入定。62歳でした。

詩文に長じ、「三筆」のひとりです。最新の中国文化を受け継ぐ屈指の文化人でもありました。
ちなみに三筆は、空海(くうかい)・嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)です。

坊主

空海はなんでもできて「天才」と呼ばれていたんだ

すごすぎる…

まだまだ解説するからしっかりついてきてね

空海の行跡

24歳で「三教指帰」を著す

三教とは、大学時代に修得した儒教・道教・仏教のことです。 空海は、「三教指帰」のなかで儒教、 道教を順に批判していくかたちをとり、最終的には仏教がいかにすぐれているかを説きました。

年代は不明ですが、阿波の大滝岳や土佐の室戸岬など四国各地の山岳で“山岳修験者”として修行していたという記述があります。

山岳修行は、虚空蔵菩薩を本尊とする 「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぼさつぐもんじほう)」を究めるための厳しい修行であったといいます。

31歳のとき、 遣唐使のメンバーとして最澄とともに入唐

同じ遣唐使船団の一員だった「最澄」は、当時すでに比叡山乗止観院の高僧で、 身分も還学僧という重要な立場でしたが、 空海は単なる私費留学僧にすぎなかった。

最澄に真言宗の灌頂を授けるが、やがて決別

空海は39歳のとき、 高雄山寺まで訪ねて弟子入りした7つ年上の最澄に、真言宗の結縁灌頂を受けています。 つまり、 空海が最澄の頭に水を注ぐことによって、密教の教主・大日如来と縁を結んだことを意味しています。

しかし、思想的に相容れず、 性格的にも正反対の人は、以降、長く決別するに至った。

最澄

空海の思想

即身成仏を説き、日本の密教を確立

空海が説いた密教は、「真言宗」または「真言密教」と呼ばれています。

その教えとは、大日如来の説かれ教えのことで、大日如来の語りかけを理解するには、心身ともに大日如来と一体になる修行が必要というものです。修行を実践すれば、「即身成仏(この身のまま仏になれること)」を説きました。

空海独自の思想をまとめたのが、晩年の大作『秘密曼荼羅十住心論』。このなかで空海は、第一住心(食としか関心のない無知な心)から出発して、儒教、道教などを経て、三論宗、天台宗、華厳宗などの精神段階を経て、最後の十住心、つまり、真言宗に到達すると述べて、真言密教は仏教思想の頂点に立つものだとしています。

一方、最澄は、真言密教は天台宗と同一平面上、あるいは天台宗のうちのひとつと考えています。また、反逆的天才児の空海と、自己抑制型の最澄とは性格的にも合わず、最終的には再三、密教の経典を借り出す最澄へ、空海は手紙で経典の貸し出しを断り、長く決別することになりました。

『秘密曼荼羅十住心論』に凝縮された思想

唐の恵果より密教を伝授されたのち、完成させた独自の思想を、 「秘密曼荼羅十住心論」全10巻として結実しました。 人間の精神の発達段階 (住心)を10に分類し、それぞれに当時の思想・宗教・宗派をあてはめて、比較検討して、真言密教の優位性を説いています。この著作を要約し、 3巻にまとめたものが 「秘蔵宝論」です。

わが国初の庶民のための学校・綜芸種智院を設立

東寺に設けられた綜芸種智院は、当時としては実に斬新な総合学問機関でした。 それまで大学といえば、官吏養成機関として、一部の上流階級にしか門戸を開いていませんでした。 しかし、空海は既存の常識を打ち破り、一般庶民のための私立大学を創設。教育家空海の名を高らしめました。

空海の伝説

雨乞いをして、池の善如竜王を呼ぶ

唐からの帰国後、 空海は平安京の神泉苑で雨乞いをしました。 ここには善如(ぜんにょ)という竜王が棲んでいて、霊験あらたかな僧が祈願すれば、竜王が現れて、雨を降らすと信じられていました。 空海が祈雨の修法をしたところ、 金色の竜が姿を見せ、雨が降りだしたという。

童子の導きで天を渡り、天竺の霊山で釈迦の教えを直接聞く

「高野山秘記」には、入唐中の伝説が記されている。 空海は童子に導かれ、砂漠や峰々を越えて天竺の霊山に着きました。 そこで釈迦説法の座に加わり、直後、釈迦の教えを聞いたという話で、これは俗に渡天説話(とてんせつわ)といわれています。

空海の伝説は数多くあります。

  • 子供の頃、夢の中で諸仏と語った。
  • 苦行中に明星がロに入った。
  • 唐からの帰国時に、密教を広めるにふさわしい聖地を求めて祈り、三鈷を投げると雲に飛び入り高野山に落ちた。
  • 水のない村を訪れて清水を出す。
  • 水害を予知して村人を救う。
坊主

本を書いたり、学校を作ったり、数々の伝説があったり
すごい人だったことがわかるね

いろいろと凄すぎて信じられないよ
もっと空海のこと知りたいな

坊主

うん。それでも実在したのは確かなんだ
漫画だとイラストがたくさんあるから頭に入っていいかもね

漫画ならわかりやすそう!

坊主

下におすすめの漫画載せてあるから見てみてね

ありがとう!

ご覧いただきありがとうございました。
今回は以上です!

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