【 隠元 】名僧解説シリーズ

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プロフィール

  • 生没 1592年〜1673年
  • 宗旨 黄檗宗
  • 別名 隆琦・大光普照国師

隠元の生涯

本場中国の禅風を日本に伝えた高僧

16世紀、中国(明)の福建省に生まれました。29歳のとき黄檗山万福寺で出家。

大悟を得たのは35歳のときで、39歳のとき尊崇する密雲円悟にしたがって黄檗山に入ります。その後、何回か移動はあったものの、62歳までをこの地で過ごしました。

運命に変化が訪れたのは、その後です。長崎興福寺の逸然性融を中心とする長崎の中国人の寺院三寺が隠元の弟子・也懶性圭(やらんしょうけい)を日本へ招きました。

ところが、船はその途中で難破して、性圭が亡くなってしまいます。そこで逸然性融らは、隠元の来日を熱望。これをどうしても断りきれず、3年の約束で、63歳の老骨に鞭打って、来日せざるを得なくなってしまいました。

妙心寺では、新しい禅風の到来だと、隠元の来日を大歓迎しました。しかし、一方では同じ臨済宗でありながら、教義の違いから妙心寺内部に混乱が生じました。ともあれ隠元は来日後、摂津の普門寺に落ち着き、やがて山城(京都)の宇治に寺地を賜りました。

この地に建てた寺が、今もその独特な中国風のつくりでその名を知られる「黄檗山万福寺」。寺号は、中国の黄檗山から取ったものです。

以来、日本に長くとどまる決心をして、万福寺で本格的な布教活動を開始します。しかし、彼が日本の仏教思想に与えた影響となると、実はあまり大きいものではなかったです。そもそも黄檗宗という宗派は、中国にはなかったもので、隠元によって日本でつくりあげられた宗派である。黄檗山万福寺が、彼のための寺であり、建築をはじめ、僧や明音での読経、生活習慣などは、中国色そのもので、特に宗派の流儀ではなかった。

ただ、明朝流の礼儀作法や、禅浄兼修の念仏禅は、日本の禅に少なからず影響を及ぼした。また、食文化、建築様式の面でも新しいものが数多く渡来したことは大きいです。

晩年、精力的に活動したため、後水尾上皇より「大光普照国師」という号を授かりました。その翌年、来日して19年後に、81歳で没しました。

隠元のエピソード

師の顔を見て、さとりを得る

密雲円悟のもとで修行中、隠元はなかなかさとりを開けないため、7日間と決めて必死の坐禅を行った。いよいよ最後の日となった7日の朝、師の円悟が通りかかった。隠元は、その顔を見た瞬間、さとりを開いたという。

「隠元」の名がついた数々の渡来品

隠元豆が有名であるが、隠元名がついたものは数多い。 ほかには隠元頭巾、 隠元帽子、 隠元笠、 隠元蒲団、隠元唐紙、 隠元行灯、隠元金づち、隠元茶、 隠元豆腐などがある。 しかし、これは必ずしも隠元が考案したものではなく、いっしょに伝えられただけです。

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