日常で使われる仏教語

仏教語や仏教のことわざは、私たちが普段、何気なく使っている言葉やことわざの中に、仏教が語源となっているものが多くあります。

本当の意味や語源を知るとうなずけるものがあると思いますので見ていきましょう!

目次

仏教語

挨拶(あいさつ)

」と「」は迫る、押し合うと意味です。禅宗での挨拶は、僧侶がお互いに意見交換をしたり、相手がどの程度まで悟りの境地に近づいているかを探ります。また、修行中の僧侶に、師匠が問答をしかけて、弟子の力量をはかることも挨拶といいます。相手の様子を見るところだけが俗世間でも広まったことになります。

愛嬌(あいきょう)

仏教用語では「愛敬」と書いて、「あいぎょう」が正しい読み方です。

仏さまや菩薩さまの慈愛あふれた柔和な表情を「愛敬相(あいぎょうそう)」と呼ぶところからきた言葉です。

本来は、男女を問わずおだやかな表情を指していた「愛敬」ですが、やがて「敬」の字を、美しいなどの意味がある「嬌」の字に変えて、女性の性格や外見を表すようになりました。「男は度胸。女は愛嬌」が良い例ですね。

安心(あんしん)

不安や心配事がなく、安らかな心でいられることをいうが、仏教では「あんじん」と読み、悟りの境地を表す言葉です。また、信仰によって心の安らぎを得て、どんな物事にも惑わされない心境のことです。

意地(いじ)

仏教では、品源の感覚期間は眼、耳、鼻、舌、身、意の六根より成るとしています。「意」は考える心、思う心を表します。「地」は物事が生ずる源のことをいいます。一般には、心根や気立てを形容したり、感情や欲を表現したりします。

一大事(いちだいじ)

もともとは仏教の言葉で「一大事因縁」といいます。お釈迦さまは一大事因縁をもってこの世に出現したという「法華経」の一節からきた言葉です。

この一大事因縁とは、仏がこの世に出現する一大目的のこと。ひとつの偉大な目的、仏さまが人々に自分が悟った真理を説き、理解させることを意味しています。やがて「因縁」が略されて、今のような使い方になりました。

有頂天(うちょうてん)

生きるものが住む世界は、下から順に、欲界、色界、無色界の3つの等級があり、これを三界と呼びます。そして、無色界をさらに四つに分けた、その頂上を「有頂天」と呼びます。

そこに昇りつめたような気持ち、我を忘れるほどの喜びという意味で使われています。

会釈(えしゃく)

本来は仏教の「和会通釈(わえつうしゃく)」が略されたものです。

仏の教えには、一見矛盾しているように感じたり、前後の関係がわかりにくいものがあります。それを照合し、通じ合う点を見つけて、疑問を解消することを、「会釈」といいます。やがて、物事を通じ合うようにする意味が発展して、相手にうまく対応するという意味が、さらに転じて現在の意味になったといわれています。

円満(えんまん)

仏教では「円満具足(えんまんぐそく)」「願行円満(がんぎょうえんまん)」などの言い方があり、欠点がなく、すべてのよいことが備わっていることをいいます。また、成就した、完成したという意味があります。

大袈裟(おおげさ)

僧侶の衣服を袈裟といいます。元は捨てられた布を拾い集めて作った仏教僧の標識とされていました。それが中国を経て日本へ伝わるうちに、現在のような、衣の上にかける装飾布の形になりました。しかし、左の肩から右脇下にかける着方は変わりませんでした。これが片方の肩から斜めに物をかける。「袈裟がけ」の語源。「袈裟斬り」も同じで、斜めに斬り落とすことをいいます。「大袈裟」は、袈裟斬りを大きくしたことで、転じて物事を誇張して表現することになりました。

親玉(おやだま)

葬儀や法事などの仏事の時に手にする、数珠からきた言葉です。数珠の玉数は、108が基本ですが、その中に一つだけ、他のより大きな玉が入れられています。これが「親玉」です。数珠の親玉は、子分のように小さな玉を、たくさん連れているところから、大勢の部下や仲間のリーダーを指す言葉になりました。

歓喜(かんき)

信心の喜びにあふれ、そのあまりに手足が動き、踊りだすことを「踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)」といいます。「一遍」や「空也上人」の念仏踊りの起源で、さらに発展したものが盆踊りになったといわれています。

同じ意味の言葉に「随喜(ずいき)」があります。仏教では、他人の善行を見て素直にそれを喜ぶこと、感極まっての喜びの涙を「随喜の涙」といいます。

勘定(かんじょう)

計算する。代金を支払うことを「お勘定をする」といったり、考えに入れることを「勘定に入れる」といいますが、本来の意味は、考え定めることです。「勘」は、直感的なものを含めて「考えること」を意味します。

空海が、経典を数えるという意味合いで「勘定」を使用していましたが、やがて、計算を表すようになりました。「勘定合って銭足らず」は、理論と実際が食い違うことを、計算が合っているのに、お金が足りない状態に例えた言い方です。

勘弁(かんべん)

禅宗の用語からきた言葉。本来は考え、わきまえることをいいます。

禅師が、問答によって修行僧の力ら素質の程度を見極める、いわばテストをすることを「勘弁」といいました。その結果によって、次の修行の段階に進むことを許したので、現在で使われるような、過失を「許す」意味をもつようになったといわれています。

「勘弁してください」などと謝るときにいいますが、関西では同じ意味でも「堪忍」を使います。「堪忍」も仏教の言葉で、もとの意味は耐え忍ぶこと。この世を娑婆といいますが、これはサンスクリッド語の音写訳で堪忍土、または忍土(にんど)という意味です。実際、娑婆では実に耐え忍ぶことが多い毎日ですね。

頑張る

もとは「我張る」で、それが変化したものといわれています。

仏教では、自分の考えに執着することはよくないとされていることから、決してプラスの意味ではないでしょう。現在でも、自分の意見を押し通すことを頑張るといいます。また、その場を動こうとしないことを指します。

甘露(かんろ)

甘くておいしいことを表します。

もとの意味は古代インドの神々が飲む不老不死の霊液のことです。一方、中国には、王がよい政治を行うと、天から甘露という液が降ってくるという伝説があり、これがあわさって「不老不死の教え」「慈雨」という意味から、仏教のたとえとなりました。日本では甘露煮、甘露水など、甘い味付けの食べのものに使われていますね。

差別(さべつ)

仏教では「しゃべつ」と読みます。この世に存在するものには、同じものはひとつもないという意味です。ひとつひとつのものには、それぞれの独自の姿があるという考えかたです。仏の教えでは、個々を区別はしますが、上下や優越の差をつけることはしないです。「差別」といいながら「無差別」を意味します。

邪魔(じゃま)

仏の道、修行をさまたげるものを「邪魔」といい、「悪魔」「魔」も同じ意味です。お釈迦さまが悟りを開こうと、菩提樹の下で坐禅を行なっているときに襲いかかってきた天魔も同じです。今では、物事の妨げになるものを指すようになりました。

喫茶(きっさ)

もとは禅宗の言葉で、喫茶喫飯(きっさきつぱん)とも呼んで、修行の本質は日常生活のなかにあるという意味です。唐の時代の禅僧、「趙州(じょうしゅう)」という人の語録に、喫茶去【まあ、お茶でも召し上がれという意味】という言葉が出てきます。これは、あれこれ考えることなく、ただ無心に茶を飲むことができたら、修行は終わりだといえるという教えです。

給仕(きゅうじ)

仏教での意味は、仏さまにいろいろなものを供えることや高僧などのそば近くにいて、仕えることをいいます。それがいつしか、食事のときに世話をすること、あるいはそれをする人、サービスすることを表す言葉になりました。

工夫(くふう)

「功夫」と書いて、もとは作業をする人のこといいましたが、仏教では修行に励むことを意味します。

特に禅宗で、座禅に専念して、公案といわれる課題を解くために、あれこれ考えをめぐらすことを工夫といったところから、今のような意味で使われるようになりました。

※下のイラストは、豊臣秀吉が鳴かないホトトギスをどうにかして鳴かそうと工夫している、「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」を表しています。

玄関(げんかん)

もとは禅の世界の言葉で、仏教の道へ入ることです。「玄」は幽玄、玄妙のことで、奥深い仏教の真理を表します。「関」は関門、入り口の意味です。建物の入口を指すものではなかったですが、のちに禅寺の書院や客殿の入口を玄関と呼びました。今では、どんな建物の入口でも玄関と呼んでいますが、庶民の家の出入口を玄関というようになったのは、江戸時代以降です。それまでは、武士階級だけに許された特権だったといわれています。

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